佐賀平野に熱気球を見に行く~その3 男女神社と須賀神社に登頂する

今日は土曜日なので、日替わり定食がない。仕方なく、レモンペッパーハンバーグ&ポテトグラタン、和食セットを注文。タダ券がないかと財布を漁ってみるが、大抵肝心な時には入っていない。
ペッパーハンバーグは旨かった。燃料補給を完了して男女神社へ。

男女神社は山の中腹にある。一の鳥居からしばらくは、集落の中を緩やかに登る。
案内板に従って左折。いきなり急坂っ。みかん畑の尾根の上を、ほぼ一直線に神社へ向けて登って行く。勾配を緩和しようなどという考えは全くない道だ。

力尽きて「押し」に入る。100メートル以上登ったと思われる。ヘロヘロになって男女神社に到着。秋の例祭の日に当たったようで、ギャラリー多し。おばちゃんに、良く頑張ったと褒めてもらった。

「男女神社」と書いて「なんにょじんじゃ」と読む。間違っても「おめ」と読んではいけない。
もちろん、期待して(何を?)登って来たのだけれど、境内には鞘の神が1つあるだけで、特にこれ(どれ?)といったものはなかった。
拝殿の中を覗いて見たかったが、正装した氏子の方々が大勢いらっしゃるので遠慮する。

男女神社の祭神はイザナギとイザナミ。縁結びの御利益があるらしい。
奉納されている絵馬をチラッと見ると、「今年こそ、思う方と結ばれますように・・・」などと、書かれてある。 鞘の神を見た直後なので、そっち(どっち?)の方を想像してしまう。
境内の外れ、展望スペースからは佐賀平野が見渡せる。眼下には先ほど行った船塚古墳、遠くには耳納の山々。空気の具合で今日は見えないが、南には雲仙も望めるだろう。

男女神社一帯は、今はみかん畑になってしまったが、かつては数百基の円墳があったそうだ。オトーサンもどうせ埋められるなら、こんな場所がいいと思った。
あっという間に坂を下り、地上に降りて来た。いくつかの小さな神社を見学して、小城市に入る。

織嶋神社を見学。長崎自動車道が参道をぶった切っている。広い境内には数本の大楠。
大楠の樹齢は推定600年。本殿の他に木造の神楽殿、黄色いすべり台もある。素敵な所だ。
境内には由緒等記したものがなく、誰を奉っているのか分からなかった。すぐ北側には、姫塚古墳と言う小さな前方後円墳があったのだが、 予習不足で行っていない。

田んぼの真ん中にこんもりした円墳がある。円山古墳と案内板にある。そのまんまである。未盗掘で、 鉄器、勾玉、管玉など出土。石室には阿蘇の凝灰岩が使われているらしい。
東側にも銭亀塚という小さな丘がある。この小丘は古墳ではないらしい。真ん中を農道が貫いている。南側にも小さな高まりがあって、こちらは墓所になっている。どうも怪しい。出っ張った所は全て古墳に見えてくる。

県道48号を更に西へ進む。交通量の多い県道を避けて、1本南側の路地へ入る。
道の左右には民家が立ち並んで、旧街道のような雰囲気。
古い酒蔵があった。煉瓦の煙突と、木造瓦葺きの巨大な建屋。妻に「光栄菊」 と看板が出ている。人の気配はない。ちょっと調べてみたが、どうも営業しているような記事には当たらない。このまま朽ち果てるのはもったいない、立派な建物だ。

嘉瀬川の支流、祇園川に沿って走る。川の中を覗く。思いのほか綺麗な水が流れている。上流へ目をやると、遠くに天山(てんざん)の草尾根が見える。このきれいな水は、あそこから流れて来ているのかな。祇園川は、夏には蛍の名所だそう。
老健施設の裏を抜けると、朱色の橋の袂に出た。須賀神社の参道に架かる橋である。ガードレールに自転車を施錠。須賀神社を見学する。

須賀神社は、鎌倉時代末期、モンゴル帝国の襲来から西国を守るため、下総からこの地へ派遣された千葉氏(肥前千葉氏)、千葉胤貞(ちばたねさだ)により京都の八坂神社より勧請された神社。奉られているのはスサノオとクシナダヒメ。
ちなみに、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の千葉周作は、千葉胤貞の遠い親戚に当たる。
JACの千葉ちゃんは赤の他人である。

祇園橋(確認はしていないけれど、多分祇園橋でいいと思う・・・)を渡り、山門を潜る。
拝殿は小高い丘のてっぺんにあって、山門から急な石段が一直線に拝殿まで続いている。
ミニスカートを履いたお姉ちゃんがいたら、確実に拝観が可能と思われる角度だが、残念ながらお子ちゃましかいない。

急な石段を頑張って登る。
振り返ると、転げ落ちそうな石段と、小城の町並みが眼下に見える。高所恐怖症にはきつい。
石段は素晴らしいが、社殿には特に見るべきものはなかった。手摺に掴まりながら、ゆっくりと降りる。下から登って来るおじちゃんが、「まだまだか?」 と尋ねるので、「下から見るよりは大したことはない」と答えておいた。 おじちゃんガンバレ。

一の鳥居の向かいに、村岡総本舗と羊羹資料館がある。
シュガーロード、長崎街道が横切る佐賀県は、江戸時代から菓子甘味の産地。小城では、羊羹の製造が盛んになり、村岡総本舗の創始者、村岡安吉という人が「小城羊羹」のブランド化に成功。小城羊羹は全国区になった。
誠直也のCMで(地元では!)おなじみ、「村岡屋のさが錦」の村岡屋は、村岡総本舗から分かれた会社である。

ジャリジャリの小城羊羹(ジャリジャリしないタイプもあるらしい)は、あまり好きでないので、村岡総本舗には入店しなかった。羊羹資料館も面倒になって見学しなかった。 (つづく)
佐賀平野に熱気球を見に行く~その2 與止日女神社で白玉饅頭を食う
自転車を押してバルーン会場を縦断。渋滞する国道34号で嘉瀬川を渡り、右岸を北上する。河川敷は駐車場になっている。ここからバルーン会場までは、かなりの距離がある。歩いて行くのは大変だろう。
気温もだいぶ上がってきて、そんなに寒くはない。走っているとポカポカしてくる。
田んぼの中に牛小屋があって、小屋の中には佐賀牛がいた。
池上神社をちょっと見学。神額に「八龍」とあるから、水神を奉っているのだろうか。池上神社の隣には、くど造りの民家があった。くど造りとは、佐賀平野に多く見られる独特な建築様式で、上から見ると凹形やL形になっている。
鍋島藩のお達しで、長い梁を用いた民家を禁じられていたから、とも言われている。佐賀平野には、長い木材となる大きな木が少ないからだと、小学校の頃、担任の先生に習ったことを思い出した。
道路の脇に柿の木があって、色づいた柿の実がたわわに実っている。
青い空に柿の実が映えて美しい。日本の農村の正しい秋の風景である。
グーグル・アースで見つけた古墳に行ってみる。集落の外れの田んぼの中に、目指す前方後円墳があった。墳丘の上は墓所になっていて、墓石が林立している。
少し離れた所にも、円墳らしき小丘があって、そちらも墓所になっている。風楽寺古墳というらしい。円墳は風楽寺南古墳。被葬者等不明。
風楽寺古墳から東へ進むと、小さな八幡様があった。神額に天満宮と併記されている。
小さな佐賀鳥居がかわいい。
八幡社から少し東へ行くと、また天神社があった。この辺りの旧地名は於保で、於保氏の城があった所。全国の於保さんはここがルーツである。 於保という名前は、鼻から空気が抜けてどうも呼び難いし、なんかホモっぽい。 (全国の於保さんゴメンナサイ)
再び嘉瀬川の土手に出た。北上する。河川敷がゴルフ場になって、渡瀬橋の袂に到着。
一旦嘉瀬川から離れて、県道212号を北上する。渡瀬橋から10分、與止日女(よどひめ)神社 の駐車場に着いた。
肥前国一の宮。祭神は與止日女命。與止日女とは、神宮皇后の妹、また豊玉姫命ともされている。與止日女神社すぐ横には、嘉瀬川が流れている。
三世代一家が七五三のお参り中。
境内の片隅にアレがあった。説明版によると、子宝に恵まれぬ與止日女様が密かにコレに肌を触れて祈ったところ、白い玉のような子供を授かった・・らしい。
県道を挟んで実相院という寺がある。與止日女神社の神宮寺だろうか。
実相院の隣に「本家ときわ家」があった。與止日女神社の名物が白玉饅頭である。あまり流行っているようには見えない(スミマセン)本家ときわ家に、恐る恐る入ってみる。
店の中ではおじちゃんとおばちゃんが作業中。ショーケースの前にイスとテーブルが置かれていて、ここで饅頭が食べられるようだ。
白玉饅頭を3個注文。出来たてのヤツを3個、菓子器に載せて出してくれた。ピンポン玉より少し小さいくらいの大きさである。
白い饅頭の表面はツルんとして喉越しが良さげに見えるが、食べてみるともっちりとしていて、見た目に騙されてパクッといくと、窒息する可能性もある。注意が必要だ。中身は漉し餡で、甘さは控えめ。饅頭というよりは団子である。素朴でいい。
お茶をお代わりする。
おじちゃんが近寄って来て、どこから来てどこに行くのかと尋ねるので、バルーン会場から来て、船塚古墳を見てから小城方面へ行く、と答える。おじちゃんが子供の頃は、船塚古墳は遊び場で、陶片や矢じりなんかをよく拾っていたそうだ。
嘉瀬川から離れて、佐賀平野と背振山地の際を西へ行く。小さな神社とみかん畑が交互に現れる。天気は良いし、暑くもなく寒くもなく、大変気持ちいい。
船塚古墳の前まで来た。表面は刈り込まれていて、古墳の形が良くわかる。
畑の中を横切って墳丘に登ってみる。前方部の真ん中がえぐれている。盗掘の跡と思われる。
古墳に沿った扇形の田んぼは環濠の跡だろう。周囲には数基の陪塚も見える。
説明板によると、全長114メートル、古墳時代中期のものと推定される前方後円墳で、詳しい調査はまだされていないようだ。なかなか良い古墳だった。
船塚古墳は長崎道からも見える。鳥栖から長崎方面に向かって、佐賀大和ICを過ぎて1分30秒くらい走って右手だ。(つづく)
佐賀平野に熱気球を見に行く~その1 幻想的な一斉離陸
3時半に起床。4時に出発するはずが、ぐずぐずしていて、家を出たのは4時半近くになった。
雨は降らないようだが、青空は望めない予報だ。
佐賀市内を通り抜けて、嘉瀬小学校校庭特設駐車場に着いたのが6時少し過ぎ。
誘導のおじちゃん達、ボランティアではないだろうが、早朝からご苦労様である。
トランクから自転車を引っ張り出し、バルーン会場へ出発。まだ薄暗く、放射冷却でむちゃくちゃ寒い。気温は多分1ケタだろう。田んぼの中を走って、嘉瀬川河川敷のバルーン会場に到着。
6時40分、東から真っ赤な太陽が昇ってきた。何のことはない、雲一つない快晴である。
ガタガタ震えながら競技開始を待つ。
佐賀バルーンフェスタには、ほぼ毎年参加させてもらっている。
今年は、車のトランクに自転車を積んで行き、自転車で会場入り。朝の競技を見学してから、自転車で付近をポタリング。夕方会場に戻って来て、ラ・モンゴルフィエ・ノクチューンを見学しようという、いいとこ取りな計画である。
本日午前のバルーン競技は、パイロット・デクレアード・ゴール。
嘉瀬川河川敷から一斉離陸して、各々パイロットが予め宣言した、任意のゴール地点へ飛んで行く。ゴール地点の地面には、ターゲット(Ⅹマーク)が描かれている。上空から、地上のターゲット目掛けてマーカー(砂袋)を落とす。近くに落とすと高得点となる。マーカーは落とすだけ。投げるのはダメ。
あちこちで気球が立ち上がってきた。空も明るくなってきた。
7時を過ぎると離陸が始まる。今日は70機以上飛ぶようだ。どんどん上がって行く。7時30分頃に離陸のピークを迎えた。
スピーカーからは、ラヴェルの「ボレロ」が流れる。
早朝の凛とした空気の中を、静かに上がって行くバルーン達。幻想的だ。
7時40分には、全てのバルーンが会場を飛び立って行った。残されちゃった感が、少し寂しい。
一斉離陸は何度か見ているが、天気にも恵まれ、今回が一番きれいだったと思う。
そして、今回が一番寒かった。
振り返って会場内を見渡すと、遥か彼方のバルーン佐賀駅まで、土手上に観客が溢れている。
バルーンフェスタは明日の日曜日が最終日。
明日は雨の予報が出ているから、実質的には今日が最終日となるだろう。お客さん達もその辺が分かっていて、今日に集中したと思われる。
会場内にはランドリーさんの軽妙なトークが響いている。
ランドリーさんとは、毎年、会場内の実況放送をしている人。アメリカ人だけど、バリバリの佐賀弁を話す、変な外人である。この人の声を聞くと、バルーンに来たのだなあぁと実感する。
放送ブースの下を通る際、何度か目が合ったことがある。カウボーイハットを被った、気さくなおっちゃんだ。
河川敷ではシェイプドバルーンが立ち上がってきた。ドラえもんやトムキャット。スペースシャトルは初めて見た。東よりの風がやや強くなって、みんな西側へ仰け反っている。
そろそろポタリングに出発。(つづく)
ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その14 サヨナラだけが人生さ
阪急千里線に乗り換え。 ゆっくりと淀川を渡り、地下鉄区間に入る。天神橋筋6丁目駅に停車。
ここから先は大阪市営地下鉄の線路だが、阪急の車両がそのまま直通する。
大阪の市街地を縦断。堺筋線の終点、天下茶屋に到着。
関白秀吉が住吉神社参拝の道中、ここにあった茶室でお茶を飲んだから天下茶屋である。
時刻は15時を少し過ぎた頃。 帰りのジェットスターは18時05分。
京都からの長い道中、途中で何が起こるか分らない。
人身事故にでも当たって不通になってもLCCは容赦ない。
とにかく帰りは十分過ぎる余裕を持って、2時間前に空港に着けるよう予定を組んでいた。
ここまで来ればもう大丈夫だろう。
構内に見かけたマックに入る。 随分と遅い昼食となった。ビックマックセットを注文。
天下茶屋駅はこれまでの何度も利用しているが、駅の外には出たことがなかった。
ビックマックを食い終わっても、まだまだ時間はある。 ちょっと外に出てみることにした。
駅前には大きなロータリーがあって、客待ちのタクシーが並んでいる。 人通りは少ない。
駅前には特に何もない。 対岸にアーケードが見えるが、あそこまで行くのも面倒だ。 構内に戻る。
改札を通ってホームに上がる。 関空行きの急行に乗車。 先頭車両にかぶり付く。
泉佐野で本線から別れ、空港線に入る。 空港連絡橋を渡る。 恐竜の腹の中を走っているようだ。
16時27分に関西空港駅着。
搭乗券の発行は済んでいるので、17時45分までに搭乗口に行けば良い。
天下茶屋でビックマックを食ってしまったので、帰宅まで食料の補給は必要ない。
出発まで特に必須な作業はなし。 ターミナルビル内を徘徊する。
関空を利用するのは今回で3回目なので、国内線に限っては、どこに何があるか大方判ってきた。
最近LCC専用の第2ターミナルが出来たそうだ。
第2ターミナルへはエアロプラザから連絡バスに乗る必要がある。
第2ターミナルを使っているのは、今の所ピーチだけ。
ターミナルビル南側のお土産売り場へ。お土産はいつもこの店で買っているような気がする。
リュックの空き容量を考えながら、菓子類を2箱購入。 リュックに押し込む。
ドールの紙パックジュースが出てきた。 家を出る時に突っ込んでいたものだ。
ドールはここで処分する。 生温かった。
ジェットスターのカウンターがあった。
お姉さんがいたので、特に必要はないのだけれど、一応搭乗券を提示してみた。
日本人と思っていたお姉ちゃんは、どうもフィリピン人のようだった。
24番搭乗口へ行くよう案内された。
保安検査。荷物の中に飲み物が入っていないか尋問される。
灘で買った酒が入っているが、未開封である旨答えると、通してもらえた。24番ゲートへ行く。
既に多くの乗客が搭乗を待っている。
同じ飛行機で福岡へ行く人達だ。見も知らない人達だけど、妙に親近感を感じる。
ここにいるみんなで心を1つにして、福岡まで飛んで行くのだ。
もし157便に何かあったら、ここにいるみんなが同じ慰霊碑に奉られると思うと、
めちゃくちゃ親近感を感じる。
隣は同じくジェットスターの札幌便。
同じジェットスターに乗る人達と思えば、多少の親近感を感じる。北海道は寒いのだろうなあ・・・。
照明の反射を遮りながら窓の外を覗く。
我々の乗るA320-200型、機体番号JA04JJが出発準備中であった。
定刻から少し遅れてドアクローズ。この時点で5分の遅れ。
座席は10Fで、またまた窓のピッチと合っていない。
誘導路を通ってRW24L端へ。
今日は南向き離陸のようだ。 離陸待ちの飛行機が後に2機連なっている。
離陸。右にターン。 空港島がきれいに見える。 灯火がきれいだ。
明石海峡大橋の上空を通過。児島湾上空から内陸部に入る。
海岸から離れると灯りは見えなくなり、何処を飛んでいるのか全く分らなくなった。
福岡空港RW16に着陸。 10分くらい遅れている。 誘導路をぶっ飛ばす。
並行している県道、福岡空港線を走る車を追い越して行く。60キロ以上は出ている。
上下にピョコピョコよく揺れる。
関空から運命を共にして来た皆様も、一斉にピョコピョコ揺れている。なんかマヌケだ。
地上の飛行機はゆっくり動いている方がカッコいい。
運命を共にした皆様方とは、特に挨拶を交わすこともなく、何事もなかったように別れた。
サヨナラだけが人生なのである。
地下鉄乗り場へ行く。
発車寸前の姪浜行きに間に合って、博多駅でも発車寸前の快速に間に合った。(おわり)
ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その13 松尾大社は遠かった
小督塚から桂川の河畔に出ると、正面に葛野大堰(かどのおおい)がある。
渡月橋の少し上流、時々殺人事件があって死体が引っかかっていたりする、あの堰である。
この辺りは大堰川、葛野大堰から下流は桂川と呼ばれる。
葛野大堰を造ったのも秦さんである。 5世紀後半のことだ。
葛野大堰の完成により、桂川右岸の灌漑に成功。秦さんも潤う。
秦さんの潤沢な資金力によって、平安京は造営された。
葛野大堰がなかったら、今の京都はなかったかも知れない。
今見えている堰は近年改修されたものだが、やっていることは秦さん時代を変わらないだろう。
渡月橋を渡る。右岸にはちょっと高そうな飲食店が並んでいる。
「鳥市」と看板を掲げた、木造2階建ての古い料理屋があった。
手頃な値段で鳥料理が食べられる店の様だ。 機会があれば食ってみたいと思った。
桂川のあっち側は、るるぶ・じゃらん的なキラキラ観光地なのに対し、
こっち側は概して渋く、クレープなんか売っていない。
観光客も少ない。渡月橋を渡っていた大勢の人達は、何処に消えたのだろう。
法輪寺を見学する。境内に電電宮という社があるらしい。
鳥市の先から右手に少し登ると、法輪寺の山門があった。
山門を潜って長い石段を上がる。
法林寺もまた秦さん縁の場所だった。
法輪寺の元々は葛野井宮(かずのいぐう)という秦一族の祖神を奉る場所であった。
奈良時代の初期(713年)、勅命により行基が開基、葛井寺(かずのいでら)となり、
平安初期(829年)、空海の弟子、道昌(讃岐出身の秦さん)が虚空蔵菩薩像を安置。
その後、法輪寺と改められた。
桂川に渡月橋を架けたのも道昌である。
法輪寺公式HPには、空海や日蓮もここで修行したとある。 けっこうスゴいお寺である。
石段の途中にエジソンとヘルツのレリーフがあった。
先に本堂を見学する。
本堂の右側には、展望台のような広場があって、渡月橋方向や京都市街の眺めが良い。
遠くに和ローソクのような京都タワーも見える。
境内には多宝塔やうるしの碑などもあったけど、面倒なので割愛。
石段を下って電電宮へ。
朱の鳥居の奥に小さな社が見える。
道昌が井戸を汲んでいた時、空から明星が降ってきて、虚空蔵菩薩が飛んできた記念に、電電明神を奉ったらしい。
電電明神とは雷の神様(=雷様?)であるらしい。
隕石が落ちてきたのを、仏様が來迎したとして、雷様を奉ったということか。 良く分らん。
戦後、電波の神様として、電波関係者が参拝するようになったようだ。
松尾大社へ。
嵐山から1駅、松尾まで阪急電車に乗る予定だったが、時間もあるし、歩くことにした。
法輪寺を過ぎると観光地は終わり、静かな住宅街となった。
県道から外れて山の辺の、民家の中の路地を行く。
左後方から水路が合流。 水路に沿って歩く。
オリジナルではないだろうが、概ね秦さんの造った用水路だろう。
この桂川用水は、葛野大堰で分水された後、桂川に沿って、桂川より一段高い所を流れている。
この先、向日市(むこうし)、長岡京辺りまで続いているそうだ。
山影は少し肌寒いが、歩いていると温まる。
水路沿いの道は、等高線をなぞるように、くねくねと続く。
地図上では1キロほどの道程だったが、実際に歩くとずいぶん遠く感じる。
昨日から歩きっぱなしで、左足の土不踏が痛い。
いいかげんイヤになってきた頃、松尾大社の森が見えてきた。
正面まで行くのがしんどくて、側面から入る。
今回の旅の最後の訪問地。用水が境内を貫流している。
松尾大社は701年に創建。京都最古の神社。
秦忌寸都理(はたのいみきとり)という秦さんが、松尾山の山頂にあった盤座から、山の神を勧請したのが始まり。
松尾山の盤座は、この辺り一帯に住んでいた秦一族の聖地であった。
730年に勅許され大社を名乗る。
祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)と中津島姫命(なかつしまひめのみこと)の2神。
神紋は二重の葵。 デザインは異なるが、木嶋神社、下鴨神社と同じ。
大山咋神はその後、天台宗・比叡山(日枝山:ひのえやま)の守護神として、
大津の日吉大社に奉られる神様である。
もう1人の祭神、中津島姫命とは市杵島姫命のことで、宗像三姉妹の1人。
松尾大社公式HPでは、秦一族が本国との通行安全を願って宗像大社から勧請した、
とされている。
松尾大社と言えば、お酒の神様である。期待してやって来たのだが、そんなに酒々していない。
松尾大社的には「うちの多々ある御利益の1つに過ぎません」と言うことか。
唯一目に付くのが、全国各地の酒造業者から奉納された薦被り。
良く見かける銘柄、ちょっとマイナーな銘柄、聞いたこともないような銘柄など、
いろいろな種類の酒樽がうず高く積まれている。
付属する「お酒の資料館」にあった説明文によると、
聖武天皇の頃(733年)、社殿背後の御手洗谷から霊泉が湧き、
「この水で酒を醸し、我を祀らば、福寿増長、家門繁栄すべし」
と神託があり、以来、酒の神として、広く醸造業者等から崇拝されているらしい。
お酒に限らす、醤油味噌など醸造全般に効くようだ。
松尾大社のマスコットキャラクターは亀さんで、至る所に亀さんがいる。
境内の片隅には「幸運の撫で亀」というのもあった。
小さな亀の石像なのだけれど、この亀を撫でると長生きするそうである。
みんなから散々撫でられて、亀の頭がテカテカ光っている。
まだ午後2時だが、松尾山の山陰になって境内は暗い。
やはり神社は午前中に見学すべきである。
まだお正月仕様で、拝殿前には特設賽銭箱が設置されたままになっている。
他にも特設おみくじ授与所や、絵馬授与所などの屋台やテントが並んでいる。落ち着かない。
気候の良い時季、午前中に再訪しようと思った。
楼門を出て一の鳥居を潜る。一の鳥居には榊が12本ぶら下がっている。
脇勧請(わきかんじょう)。この榊の枯れ具合で、その年の農作物の出来不出来を占うそうだ。
新年に合せて取り替えるので、まだ青々している。
表参道を松尾駅に向かって歩くと、巨大な鳥居が見えてきた。
コンクリート製で、平成6年10月建立と書かれてある。
平安遷都1200年記念に建てられたらしい。
位置的にはこれが一の鳥居だが、
オトーサン的にはこれは観光鳥居で、一の鳥居とは認めないことにする。
観光鳥居のすぐ目の前に阪急嵐山線松尾駅はあった。
今朝、四条烏丸駅で買っておいた関空アクセスきっぷで入場。
京都市内から関空まで1200円也。予定より1本早い電車に乗れてしまった。
桂駅で京都線の特急に乗り換え。
高槻を過ぎた辺り、進行方向右手に茶色の奇妙な建物が見えてきた。
板チョコレートのように見える。
調べてみたら、明治製菓大阪工場の板チョコレート形巨大看板だった。
板チョコの長辺は166メートルもあるそうだ。
淡路で下車。(つづく)
ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その12 野宮神社で赤面する
帷子ノ辻電停まで歩いて戻る。
電柱の住所表記を見ると、太秦面影町とある。太秦面影町…萌え萌えである。
パトレイバーに乗って車折神社(くるまざきじんじゃ)へ移動。
電停のすぐ後ろに鳥居がある。こちら側は裏口だが、構わず入場する。
最近は神社巡りをする若者も多い。
同じパトレイバーに乗っていた数人の若い女子も車折神社へ入場して行った。
御朱印帳を持って参拝している若いお兄ちゃんも見かけた。
車折神社の祭神は、清原頼業(きよはらよりなり)という平安末期の高級官僚。
清盛や頼朝とも関わった偉い人。この場所は元々頼業公の墓所であった。
後嵯峨天皇の牛車がここを通ったとき、牛車の長柄が折れたので「車折神社」となったらしい。
車折神社のご利益は「約束を違えないこと」である。すなわち、
売掛金の回収が滞りなく進み、資金繰りが都合よく運び、恋愛結婚においても様々な約束事や誓いが守られ、その他厄除け・交通安全など、どんな願い事も約束を違えず叶えてくれる・・・
そうである。
どうしてご利益が「約束を違えないこと」なのか、特に説明はなかった。
京都の神社らしく、境内は明るく華やかだ。
境内社の芸能神社を見学。ここの売りはここである。
玉垣には有名芸能人の名前がずらりと並んでいる。
(聞いた事もないような芸能人の名前もそれ以上にある!)
一等地に並んでいるのは、やはり旬の人ばかり。ちょっとイヤらしい。
因みに、この芸能玉垣は1本2年間で8500円と、比較的手頃な料金である。
芸能人に免許や資格はないから、金さえ払えば誰でもイケそうである。
芸能神社の祭神は天宇受賣命(あめのうずめ)。天岩戸の前でストリップを踊った女神である。
裏口から出て、再び嵐電に乗る。嵐電嵐山線の終点、嵐山に到着。
嵐山と言えば、超メジャー観光地。メジャーな割には、案外見る所は少ないような気がする。
渡月橋、美空ひばり記念館、梅宮辰夫の漬物屋くらいしか思いつかない。
周辺には由緒ある寺院がいっぱいあるのだが、興味がない人にはつまらない場所だと思う。
昼飯も食わずに頑張ったので、時間に少し余裕がある。
予定していなかった野宮神社を見学することにする。
天龍寺の前を北へ進み、竹林の道を通って野宮神社の前に着いた。
野宮神社は20年ほど前にも一度訪れている。
スピリチュアルなどという言葉もなかった頃で、誰もいない静かな神社だった。
現在の野宮神社は、恋愛系ミーハー神社になっていた。女性参拝客が多い。
「OO君とずっ~とずっ~と一緒にいられますように・・・」
などと、恥ずかしい文言が書かれた絵馬がいっぱいぶら下っている。
見ているこちらの方が赤面しそうである。早々に退散する。
渡月橋の袂まで歩いて来た。このまま渡月橋を渡っても良いのだが、まだ少し時間がありそうだ。
小督塚を見学することにした。
本当は時雨殿(小倉百人一首ミュージアム)に行きたかったけど、そこまでの時間はなかった。
渡月橋から桂川の左岸を少し遡上る。少し入った所に小さな石塔が建っていた。
小督塚。小督局が隠れ住んでいたとされる場所だ。
愛娘を亡くして落胆していた夫、高倉天皇を慰めるため、
中宮徳子(清盛の娘、後の建礼門院)は絶世の美女、小督局(こごうのつぼね)を差し向けた。
高倉天皇はすぐに小督局に夢中になってしまい、徳子の方は放ったらかし。
激高したのは清盛で、娘を蔑ろにされた事は無論だが、
小督局との間に子供でも出来たら今までの努力は水の泡。
清盛の怒りに触れ、恐れ戦いた小督局は、ここ嵯峨野の地に身を隠したのである。
奥さんから愛人(しかも、絶世の美女)を紹介されるなんて、
何とも羨ましい話・・・もとい、現代の常識からすると、ちょっと考えられないことである。
その後、高倉天皇は小督局を捜したりするのだけれど、最後には小督局は出家させられてしまう。
徳子は無事に安徳天皇を産み、清盛は天皇の爺ちゃんになれたのである。
一般的には「悲恋」な話だけど・・・
小督局とは藤原の人間らしいから、藤原が送り込んだハニートラップの可能性もゼロではない。
などと、ひねくれ者のオトーサンは考えたりする。 (つづく)
ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その11 巨大石室を見学する
北野線の終点、北野白梅町(きたのはくばいちょう)に到着。
車がガンガン通る大きな交差点に面食らった。静かな所だと勝手に思い込んでいた。
今出川通りの西の基点。今出川通りはここから東へ、
同志社大学の前、鴨川を渡り、百万遍の交差点を経て、銀閣寺まで続いている。
1本下って一条通りを歩く。なつかしい感じの商店街。
付喪神(つくもかみ)とは、長い年月を経た道具に憑く神。
付喪神たちが夜中に一条通りを行進(百鬼夜行:ひゃっきやこう)したそうだ。
北野天神に骨董市が立つので、打ち捨てられた道具たちが、そこに向かって行進しているのだ。
この百鬼夜行に因み、一条通り大将軍商店街を「妖怪ストリート」として売り出している。
各々の店先には手作りの妖怪が飾られている。
道具に憑くはずだが、鬼太郎っぽいのとか1つ目小僧とか、ちょっと趣旨にズレているヤツもいる。
大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)。
京都の四方に配されている大将軍神社の1つ。方位神。現在の祭神はスサノオと五男三女神。
御前(おんまえ)通りを北上して北野天満宮に至る。
この辺りにTOFU CAFE FUJINOという、豆腐料理を食べさせる店、があったはず。
・・・見当たらなかった。
北野天満宮の鳥居前にはタクシーが屯していて、
運転手がだらしなく煙草を吹かしていたりする。 なんとなくローマっぽい。いい感じ。
ゆるやかにカーブした参道を進む。北野天満宮は全国に1万2千社ある天満宮の東の総本社。
祭神はもちろん菅原ちゃん、菅原道真公である。
藤原基経(ふじわらもとつね)の影響力を排除しようとした宇多天皇・・・
「玉茎不発、ただ老人の如し」と、ED宣言。基経の送り込んだ娘、温子(よしこ)との子作りを拒否。
一方で天才エリート官僚、菅原道真を重用。
醍醐天皇へ突然の譲位を行い、道真と共に院政を行う。
藤原基経の没後、息子の藤原時平(ふじわらときひら)は、
醍醐天皇に娘を輿入れさせることに成功するも、子供が生まれない。
宇多院の第3皇子(斉世親王)と道真の娘との間には、男子(源英明)が生まれてしまう。
アセった時平、謀略により、道真を大宰府に左遷してしまう。
道真を守るべき宇多院は、この頃は仏様に夢中で都を離れていた。
時平は、宇多院不在の隙を突いて突然道真を断罪、即左遷したのである。
大宰府に飛ばされた道真は、2年後に没する。59歳であった。
東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
楼門が見えてきた。お正月用の巨大絵馬が飾られている。
太閤井戸の前に、「北野大茶湯之址」と刻まれた石碑がある。
九州平定と聚楽第完成の祝賀イベント、北野大茶湯(きたのだいさのえ)が行われた場所らしい。
身分を問わず誰でも参加OK!の画期的なイベントだったが、参加者が集まらず、10日間の予定が、たった1日で終了したとか。
楼門を潜って左側には、大きな屋根を持つ絵馬所があって、たくさんの絵馬が掲げられている。
参道が少し左にズレて、正面に三光門。逆三角形のカッコいい楼門である。
本殿は1607年に建てられたもの。秀頼さんが寄進。国宝。
北野天満宮の創建は947年。道真が大宰府で没してから43年後のことである。
道真の没後、都では数々の怪事件が起こる。
道真左遷に関わった者は次々に死に、清涼殿は雷に打たれて炎上してしまう。
人々は道真の祟りと噂した。
ビビり上がったのは藤原氏。
壮大な社殿を造営、時の天皇(一条天皇)を連れて来て「天神」の称号まで贈らせた。
道真公は天皇を超えて、天つ神になっちゃったのである。
北野天満宮公式由緒には、道真怨念説は一切書かれていなかった。
本殿の見学を終えて、境内の西側へ。菅原道真が詠んだ「手向山」の歌碑があった。
宇多天皇に随行して奈良を訪れた際、手向山八幡で詠んだ句。
オトーサンは全く無知だが、百人一首に含まれる歌らしい。
このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
北野天満宮の敷地の西側には、随分低い所に天神川が流れている。
秀吉が築いた、京の町をぐるっと一周取り囲む防塁、御土井(おどい)の説明板があった。
天神川が掘で、土手が堤である。
御土井の内側が洛中で、外側が洛外だ。
鞍馬口とか、丹波口という地名は、御土井の切れていた場所だ。
オトーサンは「御土井」のことは全く知らなかった。まだまだお勉強が足りないな。
北野天満宮の隣に、平野神社があるはずだが、なかなか行き着かない。
行き着かないまま、北野白梅町の電停に戻って来てしまった。
時刻は11時半。小腹が減った。電停の周囲には、特に飲食店も見当たらない。
電停の隣にある、イズミヤというスーパーに入ってみる。飲食店もイートインもなし。
出店のたい焼きを買って外に出る。
北野白梅町の電停で、電車を待つ間にペットボトルで流し込んだ。
帷子ノ辻に戻って来た。持参した地図を見ながら、蛇塚古墳を目指す。
グーグルアースで偶然見つて以来、ずっと行ってみたかった所だ。
路地の入口に、太秦南堀ヶ内町の住宅地図があった。地図を見ると、秦さん家が数軒あった。
今でも秦さんが住んでいるのだ!
松竹撮影所の横を通る。塀の向こう側に、江戸時代の町並みが少し見えた。
必殺仕事人シリーズなどがここで撮影されたそうだ。
10分くらい歩いて蛇塚古墳に到着。全長75メートルの前方後円墳。
被葬者は不明。秦河勝の墓だとする研究者もいる。
密集した住宅地の真ん中。後円部を取り囲む路地に沿って、扇形に民家が並んでいる。
前方部と石室を覆う盛土は失われている。石室が剥き出し状態。
住宅地の中に、露出した石室だけが取り残されている。
大きな岩で石室を組んである。赤みを帯びた堆積岩。崩れ易い岩だ。
岩は特に加工された様子はなく、自然のままに見える。石室は鉄骨で補強済み。
この巨大石室は石舞台古墳に匹敵する大きさがあるそうだ。
石室の周囲はフェンスで囲まれていて、事前情報によると、通常は施錠されているようだ。
何故だか鍵は開いていて、石室の中には先客がいた。
三十路後半くらいの女性で、なかなかのべっぴんさんだった。
挨拶をしてから石室に入る。
お互いに同好者と分かったようで、「ここ、すごいですねぇ~」と顔を見合わせながら見学する。
もしかしたら先の女性が、然るべき手続きを経て解錠したのかも知れない。ラッキーだった。
先客の女性とはその後特に発展することもなく、蛇塚古墳を後にした。
まあ、そんなもんである。(つづく)
ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その10 静御前に会いに行く
木嶋神社の前を東西に走るのが太子道。広隆寺へ続いている。
秦さんと聖徳太子は、とても仲良しだったようだ。蚕ノ杜電停に戻る。
蚕ノ杜から乗った電車は、パトカーのような塗装がされていた。パトレイバーみたいだ。
蚕ノ杜の1つ隣、太秦広隆寺(うすまさこうりゅうじ)電停で下車。
秦一族のリーダー、秦河勝(はたかわかつ)が建てたのが広隆寺。603年の創建。
聖徳太子から賜った仏像を御本尊とする。 秦一族の氏寺だ。
国宝第1号の弥勒菩薩半跏像(みろくぼさつはんかぞう)など、すごいヤツがいっぱいあるらしい。
第1号は社会科の教科書には必ず載っているから、見たら「ああ」と判るだろう。
第1号を拝観するには700円の料金が掛かる。貧乏人のオトーサンは拝むことが出来ない。
無料部分のみ見学する。
広隆寺を出て映画村方向へ少し歩くと、ローソンの向かいに大酒神社(おおさけじんじゃ)がある。
元は広隆寺の境内にあったが、神仏分離により遷座されたようだ。境内は狭い。
祭神は秦始皇帝、弓月王(ゆづきのきみ)、秦酒公(はたさけのきみ)。
弓月王とは、日本にやって来た秦一族のルーツで、秦酒公は秦河勝より古い時代のリーダー。
「仲哀天皇4年、秦始皇帝の裔、秦氏の祖、功満王(弓月王のお父さん)が来朝し、
始皇帝の祖霊を広隆寺に祀った」と由緒書にある。
大酒とは「大避」で、戦乱を避けて日本にやって来たので、「大避」である。
災難避けのご利益があるそうだ。大酒神社には、お酒の神様は奉られていない。
太秦広隆寺からまた1駅だけ電車に乗って、帷子ノ辻(かたびらのつじ)で降りる。
帷子ノ辻から折り返して北野線が分岐している。
壇林皇后(嵯峨天皇の后)の葬列がこの辺りに差し掛かったところ、
にわかに風が吹いて、棺を覆っていた帷子が飛んだので帷子ノ辻。
帷子とは、夏用の麻の単衣のことらしい。雅である。
北野線に乗り換え。レトロ風電車に乗って1駅、常盤電停で降りる。
嵯峨野高校の前を通り、踏切を渡ると、ほどなく源光寺という寺の前に着いた。小さな寺である。
「唯一全国地蔵尊霊場会総合本部」などなど、仰々しい看板がたくさん掲げてある。
ちょっと怪しい雰囲気。人気はない。 恐る恐る山門を潜る。
常盤御前の墓があると聞いてやって来たのだが、境内にはそれらしい墓は見当たらない。
見つけられないまま寺を出た。
地名の由来は、嵯峨天皇の第3皇子、源常(みなもとのときわ)の別荘があったことから。
天皇の息子が源氏姓を名乗っているのは、嵯峨天皇が子を作り過ぎたから。
所謂、臣籍降下というヤツ。 嵯峨源氏のルーツ。
生八ツ橋「夕子」号に乗って、宇多野(うたの)電停で下車。
国道を北へ行って、福王子神社を見学。宇多天皇のお母さんを奉っている神社だ。
福王子神社から少し歩いて、
第58代光孝天皇(こうこうてんのう:宇多天皇の父)後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)を見学。
あまりメジャーな御陵ではないが、宮内庁により丁寧に管理されている。
見覚えのあるシンプルな注意書きあり。
草木が茂って判りにくいが、直径30メートルくらいの円墳。
宮内庁による比定地で、本当にこれが光孝天皇の陵であるかは、ちょっと怪しいようだ。
光孝天皇は55歳で即位、58歳で崩御されている。温和な方であったらしい。
御室仁和寺(おむろにんなじ)電停まで歩く。
天気予報は良い方に外れて、日差しもあるし、そんなに寒くない。
御室仁和寺の電停は、仁和寺の山門の真正面にあって、寺社風の造りになっている。
光孝天皇の遺志を継ぎ、宇多天皇が仁和寺を落成。
出家後の宇多法皇が住んだので、「御室」である。
宇多天皇の陵墓は仁和寺の裏山にある。世界遺産仁和寺は、時間と予算の関係で見学しない。
御室は体温計で有名なオムロンの創業地。(つづく)
ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その9 木嶋坐天照御魂神社に行く
烏丸通りを北上。
「からすま」とは中々読めないが、オトーサンの世代はけっこう読めるのである。
オトーサンが中学生の頃、烏丸せつこさんという、色っぽい女優さんがいたからである。
中学校の修学旅行で京都に来ている。「ニュー銀閣」というホテルに泊まったことを憶えている。
今思えば、すごい名前のホテルだった。
夕食後、京都タワーまで歩いて行ったので、京都駅近くにあったはずだ。
閑話休題。
出勤途中のサラリーマンと交錯しながら、六角通りまで来た。
六角通りを少し東へ入ると、六角堂があった。聖徳太子縁の天台宗の寺院。
なるほど、六角形のお堂がある。太子が沐浴をした池があるので、「池坊」と呼ばれた。
池坊の坊さんが、観音様に供える花を上手に活けたので、華道の家元になったのである。
・・・お勉強になる。
境内には「へそ石」という六角形の石があった。京都のへそ、中心点らしい。
六角通りから1本下って、蛸薬師通りを西へ歩く。
狭い一方通行の通りだが、通勤の車がガンガン通る。自転車もガンガン通る。
堀川高等学校本能学舎の前に、「本能寺跡」の石碑があった。
「能」の字が「ヒヒ」ではなく、「ヒ去」となっている。
創建から何度も火災に遭っているので、「火火」でなく「火去」に変えちゃったのだ。
本能寺が光秀に襲われた時には、既に「火去」になっていたようだから、効果はなかったようだ。
その後、本能寺は秀吉により移転させられ、現在は御池通り、京都市役所の向い側にある。
「人間五十年、天下の内をくらぶれば・・」などと呟いてしまった。
更に西へ。錦小路と堀川通りが交わる角に、堀川高校の本体があった。有名な進学校みたいだ。
葉加瀬太郎、藤田まことの出身校。
嵐電の四条大宮駅 に着いた。
正式には京福電気鉄道とう名前だが、嵐山に行く電車ということで、
京都市民には嵐電(らんでん)と呼ばれている。チンチン電車である。
窓口で1日乗車券を購入。
拝観料1割引き、おみくじ1回無料など、いろいろな特典付きで500円也。
嵐電に乗って太秦めぐりスタート。
西院の電停に停車。
嵐電の電停は「さい」と読むが、ほぼ同じ場所にある阪急の駅は、「さいいん」と読む。
淳和院(じゅんないん)という離宮があったことから、御所の西の院、西院である。
また、かつてこの辺りは風葬の地で、あの世への入口、賽の河原から「さい」という説も。
島津製作所の前を通過。
天神川を渡る。北野天満宮から流れて来ている川なので、天神川なのだろう。
ここは平安京の西端。地図を見ると、猿田彦神社がしっかりあった。
蚕ノ杜(かいこのやしろ)電停で下車。
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)に行く。舌を噛みそうである。
電停から適当に北へ入ると、木嶋坐天照御魂神社に行き着いた。
木嶋神社(このしまじんじゃ)とか、
境内に蚕を奉る摂社、養蚕神社(こかいじんじゃ)があることから、蚕の社と呼ばれている。
秦さん縁の神社である。
付属する保育園へ我が子を送迎するママ達が、入れ替わり立ち替わり鳥居の前に駐車する。
なかなか写真が撮れない。
木嶋神社の祭神は、天御中主命、大国魂神、穂々出見命、鵜茅葺不合命。
アマテラスは挙がっていない。
ここの見所は三本足の鳥居である。
境内左奥に、竹垣に覆われた小さな池がある。近年涸れてしまって水はない。
池の真ん中に三柱鳥居が立っている。真上から見ると正三角形。
三柱鳥居は、
秦さんの信仰していた景教 (古代キリスト教の一派) の教義、「三位一体」を表すもの、
とする説もある。
木嶋神社を覆う鎮守の森は、元糺の森(もとただすのもり)と呼ばれている。
糺の森(ただすのもり)といえば下鴨神社だ。
元糺の森とは、下鴨神社の元宮を意味するのだろうか。
下鴨神社は賀茂(鴨)一族の氏神である。なんか面白い。
ちなみに、
三本足の八咫烏は、下神神社の祭神、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の化身、
とされている。賀茂建角身命はタマヨリヒメのお父さんである。 (つづく)
ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その8 錦市場で買い漁る
錦天満宮を東端にして錦小路、すなわち錦市場が続いている。
今夜の宿は、四条烏丸のビジネスホテル。
道すがら、錦市場で惣菜の類を買い歩き、ホテルの部屋で晩餐しようという魂胆である。
ちょっと井之頭五郎を意識している。
頭の中のBGMがベンチャーズから「ゴロー」に変わる。
時刻は18時少し前。早い所はもう店じまいを始めている。少々焦る。
練り物、鱧、湯葉、生麩など、どれも美味そうである。
漬物屋の店先で味見。漬物は買わない。先ず、ご飯物を確保しなければならない。
甘く煮たタコが入ったいなり寿司が売っている。
売り子のお姉ちゃんの愛嬌が良かったので、2個入りを購入。
練り物の天ぷら、カレー味というのが珍しく1個購入。
卵焼きの専門店があった。ちょっと大きすぎるけど、出し巻き卵を1本購入。
婆ちゃんがやっている総菜屋で、大根と鯛のアラ炊きを1パック。
煮汁を別にビニル袋に入れて、輪ゴムで縛って添えてくれた。なんか嬉しい。
18時半、ホテルに到着。暮れに開業したばかりで、正面玄関はまだ工事中。
入口が判らずに、一度通り越してしまった。
1泊朝食弁当付き3980円也。最近流行りのマンションタイプ。部屋は狭い。
シャワーを浴びて、ティファールでお茶を沸かし、ディナータイムに突入。
リュックの中から戦利品を引っ張り出して、机の上に並べてみる。なかなか壮観である。
551蓬莱も1個出てきた。
白鶴で買った灘の生一本を開ける。お猪口を洗って準備完了!!!
アラ炊き大根から頂く。
一見、煮詰まり過ぎている様に見えるが、流石に京都の味付け。薄味でお上品。
別添えの煮汁をかけても、全然辛くない。
卵焼き。こちらも薄味だけど、出汁が効いていて美味い。
タコいなりには削り節があしらってあって楽しい。
冷たいのが残念だったけれど、カレー天も普通に旨い。
鯛のアラをしゃぶりながら、灘の生一本を空ける。
551蓬莱をやっつけたので、タコいなりを1個残してしまった。明日の朝食にする。
デザートは高島屋で買った阿闍梨餅。今川焼きをお上品にした感じの菓子。
甘さ控えめの粒餡が、しっとりもっちりした薄い皮に包まれている。渋い煎茶に合う。
最近、もち吉が「えん餅」という名前で似たような商品を売っている。味も形も、まあ似ている。
腹いっぱいになってディナータイム終了。食い過ぎである。
飯を食い終わったら、特にすることもなくなった。「笑ってはいけない」の再放送を見る。
「空から日本を見てみよう」が、たまたま京都だったので、これも見る。
天気予報を見る。明日の京都は曇り。北部は雪の予報が出ている。寝る
翌朝、6時前に目が覚めた。カーテンを開けて外を見てみるが、真っ暗で何も見えない。
朝シャワーを浴びる。
フロントに降りて朝食弁当の支給を受ける。和と洋があったので、和をチョイスしておいた。
和食弁当はハンバーグと目玉焼き。即席のみそ汁が付いている。朝からガッツリ系である。
「おはよう朝日です」を見ながらガッツリ食う。エレクトーンのお天気お姉さんは、今だ健在だった。
7時40分にチェックアウト。オープン記念の粗品を進呈された。
オープン記念特価で泊まらせて頂いた上に、オープン記念粗品まで頂いた。恐縮だ。
正規料金なら多分泊まらないと思う。大変申し訳ないと思いつつ、ホテルを後にする。(つづく)
ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その7 阪急電車に乗って京都へ
たまたまやって来たのが阪神電車だったので、阪神電車に乗り込む。
三宮の1つ手前、元町駅で降りた。
中華街の最寄り駅。中華街はオトーサンも学生の頃に何度か訪れたことがある。
たいして旨くない豚まんが、すごく高かったことを憶えている。

元町駅から生田神社まで歩く。
垢抜けたお姉ちゃん達を眺めながら歩いていると、いつの間にか生田神社に着いてしまった。
生田神社には、30年前に一度来ているはずだが、どうも記憶がない。
まるで初めて来る場所のように思える。
楼門の前には、杉の葉を束ねたクリスマスツリーの様なものが飾られている。
「杉盛り」と云うもので、門松の代わりであるらしい。
かつて、洪水で流されてきた松の木が、神殿をぶっ壊したことがあり、
それ以来門松は飾らないないし、境内に1本の松もないそうだ。

阪急三宮駅へ。
素敵だった駅ビルは、震災後に解体されてしまった。
西口のコンコースとホームを覆う大屋根は以前のままみたい。
ドームに覆われたホームは、ヨーロッパのターミナル駅のようだ。
西日が差し込んでドーム内が金色に輝く。
梅田行きの特急に乗って三宮を離れる。
チョコレート色の阪急電車は、いつもピカピカ。よく手入れされていて嬉しくなる。
梅田行きの特急は、六甲の山裾を、車体を右に左に傾けながらガンガン飛ばして行く。
・・・気持ちいい。
20分ちょっとで十三に着いた。
梅田まで乗るつもりだったが、時間短縮のため、十三で乗り換えることにした。
地下道を通って京都線乗り場へ移動。河原町行き特急に乗車。 淀川の右岸をガンガン飛ばす。
天下分け目の天王山、大山崎を通過。
嵐山方面への分岐駅、桂を過ぎると、ほどなく地下鉄区間に入る。
この地下トンネルを掘るときには、いろんなモノが出てきたんだろうなぁ。
などと考えていたら終点の河原町に到着した。
自宅に帰ってから検索してみると、ちょっと面白いことが分かった。
河原町まで乗って来た電車は、8300形という形式。
オーナーは阪急電鉄ではなく、ケイマン諸島のS&Hレイルウエイというリース会社。
阪急電鉄はこの電車を借りて走らせていることになる。
ケイマン諸島とは、キューバの南にあるイギリス領の3つの小さな島々で、所謂タックスヘブン。
地上に出る前に、直結している高島屋で阿闍梨餅(あじゃりもち)を1個だけ購入。
地上に出ると、河原町四条の交差点で、河原町通りを北へ行く。繁華街で人通りが多い。
既にとっぷりと日が暮れている。外国人の2組みお姉ちゃんの後ろに付いて歩く。いい匂い。
1本西に入り、寺町通りアーケードを南下する。
頭の中ではベンチャーズの「京都慕情」が鳴っている。
丸1日歩いてヘロヘロなのだけれど、心地よい疲労感。
錦天満宮の鳥居の前に出た。先っ端が建物の中に刺さっている、有名な鳥居だ。
錦天満宮を見学する。提灯がいっぱい。
繁華街のど真中にある神社だけあって、この時間にも参拝者が多い。(つづく)
ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その6 御影郷で酔っ払う
御影駅に移動。神功皇后がそのお姿を映した泉、澤ノ井があったから「御影」である。
御影駅の北側、飲食店の連なる狭い路地を北上。国道2号線に出た。
国道2号線を東へ進む。
本住吉(もとすみよし)神社に到着。
住吉と名のつく神社は、全国各地にいっぱいある。
住吉神社の総本社は、大阪の住吉大社ということになっている。
本住吉神社的には当然、「うちがオリジナル!」である。
住所は東灘区住吉宮町。震災後に復興された社殿である。
阪神住吉駅方向へ南下。歩いている道は本住吉神社の参道になる。
住吉公園のテニスコートを左折して、遊喜幼稚園を目指して進む。
遊喜幼稚園と、その隣の小さな公園が、東求女塚古墳(ひがしもとめづかこふん)のあった場所。
今は公園の中に石碑が立っているだけだった。
阪神電車の線路を造る際に崩されて、その時に三角縁の鏡が発見された。
三角縁の鏡は東京の国立博物館に納められているそうだ。
ここから西に1.5キロほど行くと、処女塚古墳(おとめづかこふん)がある。
時間に余裕があれば、行ってみる心算だったが、ちょっと無理そうだ。
国道43号線の上に阪神高速が通っていて、国道と高速の隙間を歩道橋で渡る。
すぐに白鶴酒造の大きな看板が見えて、辺りには甘い香りが漂ってきた。
白鶴酒造資料館に到着。
観光バスに連れて来られた爺様の集団に混じって、白鶴酒蔵資料館に入館。
資料館は大正時代に造られた木造の蔵で、昭和40年代まで実際に使用されていたそうだ。
展示品には目もくれず、試飲コーナーへ直行する。
樽とか桶には、あんまり興味がないし、予定時間を回復したい。
お姉さんにお酌をしてもらって、数種類かのお酒を試飲。
お姉さんが、なかなかのベッピンさんで、次々と注いでくれるものだから、かなり気分が良い。
即売コーナーで小瓶2本と、白鶴の銘が入ったお猪口を購入。滞在時間15分。
重くなったリュックを背負って、ややおぼつかない足取りで御影駅まで歩く。
白鶴の隣は菊正宗があって、菊正宗の隣には剣菱がある。灘五郷の1つ、御影郷である。
御影郷という言葉のイメージとはまるで異なり、工場街か倉庫街にしか見えない。
ヘロヘロになって御影駅に帰って来た。白鶴資料館を大幅に端折ったので、予定時間は回復。
若干の余裕が出来た。
三宮駅を通り越して高速神戸駅で電車を降りる。
地下駅の高速神戸駅から地上に出ると、目の前に湊川神社の鳥居があった。
明治政府により建てられた楠木正成公を奉る神社。
楠公さん、南北朝時代、後醍醐天皇(南朝)に付き湊川で殉じた忠臣として、神様にされちゃった。
楠公の墓所があった所に建てられたそうだ。
境内には、何故か水戸黄門様の銅像があった。テレビで見るより、みすぼらしい爺様だった。
高速神戸駅に戻る。(つづく)
ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その5 お祭り準備中
駅に戻る途中、「ケンちゃんラーメン」と看板を揚げたラーメン屋があった。
店の前に2、3人の客が待っている。なんか旨そうな店に見える。
ちょうどお昼時、腹も減っている。入ってみたかったけど、時間がない。諦める。

姫島駅のホームで電車を待つ僅かな時間に、蓬莱の豚まんをペットボトルのお茶で流し込んだ。
高速神戸行きの普通電車に乗車。大物方面にまた逆戻り。
姫島の隣の駅が千船(ちふね)で、千船駅の住所は西淀川区佃である。
ブラタモリ情報によると、家康によりここの漁民が移住させられた先が江戸の佃島だったそうだ。

千船を過ぎると再び兵庫県に入る。尼崎で急行に乗り換えて、尼崎競艇場の横を通過。
武庫川駅は、武庫川に架かる鉄橋の上にホームがあって、枕木の間から川面が透けて見えた。
鳴尾駅は生徒数日本一の武庫女(武庫川女子大)の最寄り駅。残念ながら通過。
甲子園には停車。甲子園球場がチラっと見えた。12時38分、西宮着。

西宮の由来について少し調べてみたが、諸説あってスッキリしない。
西宮神社の御由緒を採用することにする。
鳴尾の漁師がある日、ヒルコの神像を引き上げた。
その夜、夢枕にヒルコが出てきて、「西の方に宮を建てよ」と言ったから「西宮」である。

駅前の小ぎれいな繁華街を少し歩くと、右手に鎮守の森が見えてきた。
西宮神社に近づくにつれ、次第に周囲がざわついてきた。
あ、明日は十日えびすだ。
境内ではテキ屋の方々が出店の準備に追われ、殺気立っている。
ん~失敗した。来る日を間違った。ゆっくり見学できるような雰囲気ではない。

テキ屋の方が運転する資材搬入トラックに、危うく轢かれそうになりながら参道を進む。
西宮神社は、全国にあるえびす(恵比須、蛭子)神社の総本社である。
明日はたいそう賑やかになるのだろう。拝殿の前には横一列に、熊手売場が出来上がっていた。
西宮神社では、ニューイヤーチケット付録の記念品引換券が使えるのだが、面倒なのでパス。

西宮から東灘にかけて、灘五郷(なだごごう)と呼ばれる酒造地帯が続く。
幕府は江戸に移ったが、江戸では美味い酒が出来ない。上方の上質の酒が江戸に下った。
宮水で仕込んだ灘の酒は、甘い伏見の酒(女酒)とは異なり、すっきりした辛口の酒(男酒)。
灘の酒は関東人の口に合った。
また、夏を越しても品質が落ちず、灘の酒は江戸で大人気となる。
一般的に日本の水は軟水だが、西宮の水、「宮水」は、ミネラル分の豊富な硬い水。
宮水が湧くのは、市街地の真ん中、海岸近くのごく狭いエリア。
今も多くの酒造メーカーの井戸が、林立しているそうだ。
酒造に適した湧水、六甲おろしの冷たい風、スピーディーに出荷できる港湾、播州の山田錦など、
諸々の条件が揃って、灘の生一本は生まれたのだ。
お勉強終わり。(つづく)
ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その4 アカルヒメに会いに行く
尼崎から普通電車に乗って1駅逆戻り。大物(だいもつ)という名前の駅で降りた。

大物という駅名に惹かれて調べてみると、駅のすぐ南側に大物主(おおものぬし)神社があった。
是非訪ねてみたくなり、強引に旅程に組み込んだのだ。
大物主神社は大物駅から徒歩3分。入口には大きな門柱が立っている。
右の柱には「大物主神社」、左の柱に「宗像東宮」と標されている。

大物主はいいとして、宗像東宮とは何だろう。
尼崎は古くは「海が幸」と呼ばれ、大物浦は漁港であり、瀬戸内と京を結ぶ交通の要所であった。
日宋貿易を牛耳っていた平清盛により、宮島厳島から宗像三姉妹が勧請された。
大物浦はまた、源義経が頼朝の追討から逃れるため西国へ船出をした港。
能楽「船弁慶」の舞台でもある。
などとエラそうな事を書いているが、オトーサンは能なんか見たことない。
受け売りです。スミマセン。

境内には由緒書等発見できず。
ネット情報によると、
崇神天皇の時代、太田田根子の子孫により、奈良桜井から大物主神が勧請されたらしい。
大物駅に戻って来た。
大物駅は阪神電車の本線と難波支線の分岐駅で、今度は本線に乗って梅田方面へ進む。
大阪市内へ逆戻り。大物駅から10分ほどで姫島駅に着いた。
姫島駅のホームから東側を望むと、線路はすぐに、淀川に架かる鉄橋を渡っている。
ここは淀川と神崎川に挟まれた川の中。アカルヒメがたどり着いた頃はまだ海の中だったはず。
(この辺りの海抜は-1メートル。今も海の中である)

駅を出て南西の方角に7分歩くと、姫嶋神社の赤い鳥居が見えてきた。
島木が反り繰り返った明神鳥居だが、反り繰り返り方が半端でない。
これだけ反り繰り返ったヤツは初めて見た。まるで10代の様な反り繰り返り方である。

反り繰り返った明神鳥居を潜って境内へ。
夫、アメノヒボコからのDVに耐えかねて、新羅から逃げて来たアカルヒメ。
最初は、筑紫の比売島に隠れたが、筑紫では新羅から近いので、難波の比売島まで逃げて来た。
大分県の姫島に座す比売語曽神社、広島県呉の亀山神社(旧比売島神社)、大阪鶴橋の比売語曽神社と、アカルヒメの追っかけをしているオトーサンが、必ず訪れなければいけない場所だった。
今回、ジェットスターのお陰で長年の念願が叶ったが、オトーサンは案外と冷めている。
10代の鳥居以外は、特に変哲もない町中の普通の神社だった。

いろんな事を考えながら、やや広めの開放的な境内を散策する。
お稲荷さんと金比羅さんが同居。

由緒書によると、祭神はアカルヒメと住吉三神で、少し前まで住吉神社だったらしい。
説明板によると、働き者のアカルヒメがこの地に機織りを伝えた、らしい。
アカルヒメは秦一族という事か。来て良かった。
妹が名は 千代に流れん姫島の 小松が末に 苔むすまでに
境内の奥に歌碑がある。刻まれている歌が「君が代」のルーツとする説があるらしい。
ぽかぽか陽気。
神社の隣の姫島公園では、若いお母さんと子供がひなたぼっこ中。(つづく)