佐賀平野に熱気球を見に行く~その4 夜間係留は・・
小城の市街地を徘徊する。羊羹店だらけ。
くど造りの羊羹店があった。観光バスが停まっていて、おばちゃん達が大勢たかっている。
1棹買ってみようかなと思ったけれど、おばちゃん達のパワーにタジタジして止めてしまった。
小城高校の横を通り小城公園へ。佐賀藩の支藩、小城藩の庭園。
戦後、鍋島家から小城市に寄贈され、公園として整備された。桜の名所。
公園内には、小城藩の初代と2代目の殿様を奉る岡山神社が鎮座している。有田焼の灯篭。
神様がお殿様なので、あんまり興味が沸かない。
柳生十兵衛を奉る武正社という末社があった。鍋島のお殿様は新陰流を習ったそうだ。
小城城(陣屋)の跡地には、今は小城高校が建っている。
唐津線小城駅前に出た。大正6年生まれの木造駅舎。うちの爺様と同じ歳だ。小城の町外れにあって、駅前は閑散としている。
駅前通りを唐津街道との交差点まで戻る。
唐津街道沿いの恵比須神社を見学する。祭神が日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)になっている。日子穂穂手見命とは山幸彦のことである。エビスさんはどこに行っちゃったんだろう。
唐津街道から離れ田園の中の道を、鎮守の森を目当てに進む。
厳島神社、日吉神社を見学。千葉ちゃんの息が掛かった神社だった。
七星宮。説明版が全くなく、良く分からなかったが、神功皇后とアマテラスを奉っているらしい。 七星とは、たぶん北斗七星のことだから、北辰妙見信仰だろう。ググってみたら、千葉一族が信仰していたのが妙見菩薩だった。
七星宮がここにあるのは、なんとなく納得できたが、現在の祭神が神功皇后とアマテラス。すなわち、太陽神になっているのが不思議だ。
大豆畑の中を、三日月小学校の前まで来た。小学校の前に、三日月交通安全協会謹製、交通安全人形が立っている。黄色い帽子に赤いランドセル。多分、小学1年生。名前は何というのだろう。右手を高く掲げ、シュールな顔付きでこちらを見つめている。
夜中に不意にヘッドライトに照らされたりすると、非常に怖いと思われる。
三日月町(みかつきちょう)について。
現在は合併して小城市になっているが、平成17年までは単独で町であった。平安時代の記録に、「甕調」とある。甕(かめ、みか)を、調(つき=租庸調の調)として納めていた地域であった、からという説。「甕調」が「三日月」になったのだ。由来はともかく、ロマンチックな地名である。
天満宮を2社見学した後、道辺の宇佐神社へ。祭神は応神天皇、大山咋神、菅原道真である。
ちょっと面白い神社に当たってしまった。案内板によると・・・
平清盛VS後白河法皇、いわゆる鹿ヶ谷事件の結果、首謀者の藤原成経(ふじわらのなりつね)、俊寛(しゅんかん)らは喜界島へ流罪となる。
成経は後に恩赦により京へ帰ることができたが、俊寛だけは島に残された。俊寛は(せめて)宇佐八幡宮へ帰れるよう祈願したと言う。
哀れに思った成経は、俊寛を密かにこの地へ連れ出し匿ったけれど、ここは宇佐からは遠いので、宇佐八幡宮から勧請して社殿を建立した…らしい。
宇佐神社になる前、元々は宇美八幡から勧請された神社であったらしい。応神天皇つながり。
菅原ちゃんは、何故ここにいるのか分からない。
その後、竜造寺氏、鍋島氏によって加護を受ける。神紋は五七桐紋。
境内でカササギ(カチガラス)が遊んでいた。
カササギは秀吉の朝鮮出兵の際、鍋島氏が持ち帰ことになっている。
宇佐神社の南隣の集落に、小さな淀姫神社があった。立砂が施してある。
祇園川と嘉瀬川の合流点を目指して進む。それらしい場所には着いたけれど道がない。自転車を担いで、祇園川の土手によじ登る。
バルーン会場に戻って来た。時刻は15時。
午後の競技は強風によりキャンセルされたようだが、相変わらず観客でごった返している。みんな夜間係留目当てなのだろう。
1時間程バルーン会場を漂ってから、一旦駐車場へ戻る。
嘉瀬小学校々庭特設駐車場へ戻る途中、四面神社に寄り道。クリークと住宅地に囲まれた、静かな場所に鎮座している。諌早神、温泉神、支々岐神、千々岩神という4柱を奉っているらしい。
ググってみても、これら4柱が何の神様か全く分からない。根拠はないが、どうも有明海沿岸の地名のように思える。
かつてこの辺りには、嘉瀬津という港があった。地図を見ると、国道207号線を挟んで南側に、嘉瀬津神社という社がある。来年の秋にでも訪問してみようと思う。
嘉瀬小学校々庭特設駐車場は既に満車。停めたい車が列を作っている。待っていても、空く可能性は低いだろうに。車から三脚を取ってバルーン会場へトンボ返る。 寒くなってきた。
小腹が減った。時間はあるけど、バルーン会場までの道中には、補給できそうな食堂などはない。諦める。
またまたバルーン会場へ戻って来た。時刻は16時半。
ラ・モンゴルフィエ・ノクチューンは18時からの予定。観客の暇つぶしに凧揚げなどをしている。
バルーンにとってはきつい東風が吹いている。日が落ちると、また一段と寒くなった。震えながら待つ。
日が落ちても風は止まない。観客は次々とやって来ているが、どうも、夜間係留は中止のような気がする。隣に陣取っているカメラマン氏も、同じように思っているようで、携帯で連れに撤収の連絡をしている。寒いし、腹は減ったし、バルーンは立たないし、オトーサンも撤収することにした。
嘉瀬小学校々庭特設駐車場では、まだ入庫待ちの車が列を作っていた。自転車を収容。
隣に若いファミリーの車が停まった。これからバルーン会場まで歩いて行くそうだ。小さな子供を連れて、ここから歩くのは大変だろう。
この日のラ・モンゴルフィエ・ノクチューンは、バーナーを焚くだけで終わったそうだ。基山のラーメン屋に寄り道して、ラーメンを食って帰った。夜間係留が残念だったけど、楽しい1日だった。(おわり)
佐賀平野に熱気球を見に行く~その3 男女神社と須賀神社に登頂する

今日は土曜日なので、日替わり定食がない。仕方なく、レモンペッパーハンバーグ&ポテトグラタン、和食セットを注文。タダ券がないかと財布を漁ってみるが、大抵肝心な時には入っていない。
ペッパーハンバーグは旨かった。燃料補給を完了して男女神社へ。

男女神社は山の中腹にある。一の鳥居からしばらくは、集落の中を緩やかに登る。
案内板に従って左折。いきなり急坂っ。みかん畑の尾根の上を、ほぼ一直線に神社へ向けて登って行く。勾配を緩和しようなどという考えは全くない道だ。

力尽きて「押し」に入る。100メートル以上登ったと思われる。ヘロヘロになって男女神社に到着。秋の例祭の日に当たったようで、ギャラリー多し。おばちゃんに、良く頑張ったと褒めてもらった。

「男女神社」と書いて「なんにょじんじゃ」と読む。間違っても「おめ」と読んではいけない。
もちろん、期待して(何を?)登って来たのだけれど、境内には鞘の神が1つあるだけで、特にこれ(どれ?)といったものはなかった。
拝殿の中を覗いて見たかったが、正装した氏子の方々が大勢いらっしゃるので遠慮する。

男女神社の祭神はイザナギとイザナミ。縁結びの御利益があるらしい。
奉納されている絵馬をチラッと見ると、「今年こそ、思う方と結ばれますように・・・」などと、書かれてある。 鞘の神を見た直後なので、そっち(どっち?)の方を想像してしまう。
境内の外れ、展望スペースからは佐賀平野が見渡せる。眼下には先ほど行った船塚古墳、遠くには耳納の山々。空気の具合で今日は見えないが、南には雲仙も望めるだろう。

男女神社一帯は、今はみかん畑になってしまったが、かつては数百基の円墳があったそうだ。オトーサンもどうせ埋められるなら、こんな場所がいいと思った。
あっという間に坂を下り、地上に降りて来た。いくつかの小さな神社を見学して、小城市に入る。

織嶋神社を見学。長崎自動車道が参道をぶった切っている。広い境内には数本の大楠。
大楠の樹齢は推定600年。本殿の他に木造の神楽殿、黄色いすべり台もある。素敵な所だ。
境内には由緒等記したものがなく、誰を奉っているのか分からなかった。すぐ北側には、姫塚古墳と言う小さな前方後円墳があったのだが、 予習不足で行っていない。

田んぼの真ん中にこんもりした円墳がある。円山古墳と案内板にある。そのまんまである。未盗掘で、 鉄器、勾玉、管玉など出土。石室には阿蘇の凝灰岩が使われているらしい。
東側にも銭亀塚という小さな丘がある。この小丘は古墳ではないらしい。真ん中を農道が貫いている。南側にも小さな高まりがあって、こちらは墓所になっている。どうも怪しい。出っ張った所は全て古墳に見えてくる。

県道48号を更に西へ進む。交通量の多い県道を避けて、1本南側の路地へ入る。
道の左右には民家が立ち並んで、旧街道のような雰囲気。
古い酒蔵があった。煉瓦の煙突と、木造瓦葺きの巨大な建屋。妻に「光栄菊」 と看板が出ている。人の気配はない。ちょっと調べてみたが、どうも営業しているような記事には当たらない。このまま朽ち果てるのはもったいない、立派な建物だ。

嘉瀬川の支流、祇園川に沿って走る。川の中を覗く。思いのほか綺麗な水が流れている。上流へ目をやると、遠くに天山(てんざん)の草尾根が見える。このきれいな水は、あそこから流れて来ているのかな。祇園川は、夏には蛍の名所だそう。
老健施設の裏を抜けると、朱色の橋の袂に出た。須賀神社の参道に架かる橋である。ガードレールに自転車を施錠。須賀神社を見学する。

須賀神社は、鎌倉時代末期、モンゴル帝国の襲来から西国を守るため、下総からこの地へ派遣された千葉氏(肥前千葉氏)、千葉胤貞(ちばたねさだ)により京都の八坂神社より勧請された神社。奉られているのはスサノオとクシナダヒメ。
ちなみに、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の千葉周作は、千葉胤貞の遠い親戚に当たる。
JACの千葉ちゃんは赤の他人である。

祇園橋(確認はしていないけれど、多分祇園橋でいいと思う・・・)を渡り、山門を潜る。
拝殿は小高い丘のてっぺんにあって、山門から急な石段が一直線に拝殿まで続いている。
ミニスカートを履いたお姉ちゃんがいたら、確実に拝観が可能と思われる角度だが、残念ながらお子ちゃましかいない。

急な石段を頑張って登る。
振り返ると、転げ落ちそうな石段と、小城の町並みが眼下に見える。高所恐怖症にはきつい。
石段は素晴らしいが、社殿には特に見るべきものはなかった。手摺に掴まりながら、ゆっくりと降りる。下から登って来るおじちゃんが、「まだまだか?」 と尋ねるので、「下から見るよりは大したことはない」と答えておいた。 おじちゃんガンバレ。

一の鳥居の向かいに、村岡総本舗と羊羹資料館がある。
シュガーロード、長崎街道が横切る佐賀県は、江戸時代から菓子甘味の産地。小城では、羊羹の製造が盛んになり、村岡総本舗の創始者、村岡安吉という人が「小城羊羹」のブランド化に成功。小城羊羹は全国区になった。
誠直也のCMで(地元では!)おなじみ、「村岡屋のさが錦」の村岡屋は、村岡総本舗から分かれた会社である。

ジャリジャリの小城羊羹(ジャリジャリしないタイプもあるらしい)は、あまり好きでないので、村岡総本舗には入店しなかった。羊羹資料館も面倒になって見学しなかった。 (つづく)
佐賀平野に熱気球を見に行く~その2 與止日女神社で白玉饅頭を食う
自転車を押してバルーン会場を縦断。渋滞する国道34号で嘉瀬川を渡り、右岸を北上する。河川敷は駐車場になっている。ここからバルーン会場までは、かなりの距離がある。歩いて行くのは大変だろう。
気温もだいぶ上がってきて、そんなに寒くはない。走っているとポカポカしてくる。
田んぼの中に牛小屋があって、小屋の中には佐賀牛がいた。
池上神社をちょっと見学。神額に「八龍」とあるから、水神を奉っているのだろうか。池上神社の隣には、くど造りの民家があった。くど造りとは、佐賀平野に多く見られる独特な建築様式で、上から見ると凹形やL形になっている。
鍋島藩のお達しで、長い梁を用いた民家を禁じられていたから、とも言われている。佐賀平野には、長い木材となる大きな木が少ないからだと、小学校の頃、担任の先生に習ったことを思い出した。
道路の脇に柿の木があって、色づいた柿の実がたわわに実っている。
青い空に柿の実が映えて美しい。日本の農村の正しい秋の風景である。
グーグル・アースで見つけた古墳に行ってみる。集落の外れの田んぼの中に、目指す前方後円墳があった。墳丘の上は墓所になっていて、墓石が林立している。
少し離れた所にも、円墳らしき小丘があって、そちらも墓所になっている。風楽寺古墳というらしい。円墳は風楽寺南古墳。被葬者等不明。
風楽寺古墳から東へ進むと、小さな八幡様があった。神額に天満宮と併記されている。
小さな佐賀鳥居がかわいい。
八幡社から少し東へ行くと、また天神社があった。この辺りの旧地名は於保で、於保氏の城があった所。全国の於保さんはここがルーツである。 於保という名前は、鼻から空気が抜けてどうも呼び難いし、なんかホモっぽい。 (全国の於保さんゴメンナサイ)
再び嘉瀬川の土手に出た。北上する。河川敷がゴルフ場になって、渡瀬橋の袂に到着。
一旦嘉瀬川から離れて、県道212号を北上する。渡瀬橋から10分、與止日女(よどひめ)神社 の駐車場に着いた。
肥前国一の宮。祭神は與止日女命。與止日女とは、神宮皇后の妹、また豊玉姫命ともされている。與止日女神社すぐ横には、嘉瀬川が流れている。
三世代一家が七五三のお参り中。
境内の片隅にアレがあった。説明版によると、子宝に恵まれぬ與止日女様が密かにコレに肌を触れて祈ったところ、白い玉のような子供を授かった・・らしい。
県道を挟んで実相院という寺がある。與止日女神社の神宮寺だろうか。
実相院の隣に「本家ときわ家」があった。與止日女神社の名物が白玉饅頭である。あまり流行っているようには見えない(スミマセン)本家ときわ家に、恐る恐る入ってみる。
店の中ではおじちゃんとおばちゃんが作業中。ショーケースの前にイスとテーブルが置かれていて、ここで饅頭が食べられるようだ。
白玉饅頭を3個注文。出来たてのヤツを3個、菓子器に載せて出してくれた。ピンポン玉より少し小さいくらいの大きさである。
白い饅頭の表面はツルんとして喉越しが良さげに見えるが、食べてみるともっちりとしていて、見た目に騙されてパクッといくと、窒息する可能性もある。注意が必要だ。中身は漉し餡で、甘さは控えめ。饅頭というよりは団子である。素朴でいい。
お茶をお代わりする。
おじちゃんが近寄って来て、どこから来てどこに行くのかと尋ねるので、バルーン会場から来て、船塚古墳を見てから小城方面へ行く、と答える。おじちゃんが子供の頃は、船塚古墳は遊び場で、陶片や矢じりなんかをよく拾っていたそうだ。
嘉瀬川から離れて、佐賀平野と背振山地の際を西へ行く。小さな神社とみかん畑が交互に現れる。天気は良いし、暑くもなく寒くもなく、大変気持ちいい。
船塚古墳の前まで来た。表面は刈り込まれていて、古墳の形が良くわかる。
畑の中を横切って墳丘に登ってみる。前方部の真ん中がえぐれている。盗掘の跡と思われる。
古墳に沿った扇形の田んぼは環濠の跡だろう。周囲には数基の陪塚も見える。
説明板によると、全長114メートル、古墳時代中期のものと推定される前方後円墳で、詳しい調査はまだされていないようだ。なかなか良い古墳だった。
船塚古墳は長崎道からも見える。鳥栖から長崎方面に向かって、佐賀大和ICを過ぎて1分30秒くらい走って右手だ。(つづく)
佐賀平野に熱気球を見に行く~その1 幻想的な一斉離陸
3時半に起床。4時に出発するはずが、ぐずぐずしていて、家を出たのは4時半近くになった。
雨は降らないようだが、青空は望めない予報だ。
佐賀市内を通り抜けて、嘉瀬小学校校庭特設駐車場に着いたのが6時少し過ぎ。
誘導のおじちゃん達、ボランティアではないだろうが、早朝からご苦労様である。
トランクから自転車を引っ張り出し、バルーン会場へ出発。まだ薄暗く、放射冷却でむちゃくちゃ寒い。気温は多分1ケタだろう。田んぼの中を走って、嘉瀬川河川敷のバルーン会場に到着。
6時40分、東から真っ赤な太陽が昇ってきた。何のことはない、雲一つない快晴である。
ガタガタ震えながら競技開始を待つ。
佐賀バルーンフェスタには、ほぼ毎年参加させてもらっている。
今年は、車のトランクに自転車を積んで行き、自転車で会場入り。朝の競技を見学してから、自転車で付近をポタリング。夕方会場に戻って来て、ラ・モンゴルフィエ・ノクチューンを見学しようという、いいとこ取りな計画である。
本日午前のバルーン競技は、パイロット・デクレアード・ゴール。
嘉瀬川河川敷から一斉離陸して、各々パイロットが予め宣言した、任意のゴール地点へ飛んで行く。ゴール地点の地面には、ターゲット(Ⅹマーク)が描かれている。上空から、地上のターゲット目掛けてマーカー(砂袋)を落とす。近くに落とすと高得点となる。マーカーは落とすだけ。投げるのはダメ。
あちこちで気球が立ち上がってきた。空も明るくなってきた。
7時を過ぎると離陸が始まる。今日は70機以上飛ぶようだ。どんどん上がって行く。7時30分頃に離陸のピークを迎えた。
スピーカーからは、ラヴェルの「ボレロ」が流れる。
早朝の凛とした空気の中を、静かに上がって行くバルーン達。幻想的だ。
7時40分には、全てのバルーンが会場を飛び立って行った。残されちゃった感が、少し寂しい。
一斉離陸は何度か見ているが、天気にも恵まれ、今回が一番きれいだったと思う。
そして、今回が一番寒かった。
振り返って会場内を見渡すと、遥か彼方のバルーン佐賀駅まで、土手上に観客が溢れている。
バルーンフェスタは明日の日曜日が最終日。
明日は雨の予報が出ているから、実質的には今日が最終日となるだろう。お客さん達もその辺が分かっていて、今日に集中したと思われる。
会場内にはランドリーさんの軽妙なトークが響いている。
ランドリーさんとは、毎年、会場内の実況放送をしている人。アメリカ人だけど、バリバリの佐賀弁を話す、変な外人である。この人の声を聞くと、バルーンに来たのだなあぁと実感する。
放送ブースの下を通る際、何度か目が合ったことがある。カウボーイハットを被った、気さくなおっちゃんだ。
河川敷ではシェイプドバルーンが立ち上がってきた。ドラえもんやトムキャット。スペースシャトルは初めて見た。東よりの風がやや強くなって、みんな西側へ仰け反っている。
そろそろポタリングに出発。(つづく)