ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その14 サヨナラだけが人生さ
阪急千里線に乗り換え。 ゆっくりと淀川を渡り、地下鉄区間に入る。天神橋筋6丁目駅に停車。
ここから先は大阪市営地下鉄の線路だが、阪急の車両がそのまま直通する。
大阪の市街地を縦断。堺筋線の終点、天下茶屋に到着。
関白秀吉が住吉神社参拝の道中、ここにあった茶室でお茶を飲んだから天下茶屋である。
時刻は15時を少し過ぎた頃。 帰りのジェットスターは18時05分。
京都からの長い道中、途中で何が起こるか分らない。
人身事故にでも当たって不通になってもLCCは容赦ない。
とにかく帰りは十分過ぎる余裕を持って、2時間前に空港に着けるよう予定を組んでいた。
ここまで来ればもう大丈夫だろう。
構内に見かけたマックに入る。 随分と遅い昼食となった。ビックマックセットを注文。
天下茶屋駅はこれまでの何度も利用しているが、駅の外には出たことがなかった。
ビックマックを食い終わっても、まだまだ時間はある。 ちょっと外に出てみることにした。
駅前には大きなロータリーがあって、客待ちのタクシーが並んでいる。 人通りは少ない。
駅前には特に何もない。 対岸にアーケードが見えるが、あそこまで行くのも面倒だ。 構内に戻る。
改札を通ってホームに上がる。 関空行きの急行に乗車。 先頭車両にかぶり付く。
泉佐野で本線から別れ、空港線に入る。 空港連絡橋を渡る。 恐竜の腹の中を走っているようだ。
16時27分に関西空港駅着。
搭乗券の発行は済んでいるので、17時45分までに搭乗口に行けば良い。
天下茶屋でビックマックを食ってしまったので、帰宅まで食料の補給は必要ない。
出発まで特に必須な作業はなし。 ターミナルビル内を徘徊する。
関空を利用するのは今回で3回目なので、国内線に限っては、どこに何があるか大方判ってきた。
最近LCC専用の第2ターミナルが出来たそうだ。
第2ターミナルへはエアロプラザから連絡バスに乗る必要がある。
第2ターミナルを使っているのは、今の所ピーチだけ。
ターミナルビル南側のお土産売り場へ。お土産はいつもこの店で買っているような気がする。
リュックの空き容量を考えながら、菓子類を2箱購入。 リュックに押し込む。
ドールの紙パックジュースが出てきた。 家を出る時に突っ込んでいたものだ。
ドールはここで処分する。 生温かった。
ジェットスターのカウンターがあった。
お姉さんがいたので、特に必要はないのだけれど、一応搭乗券を提示してみた。
日本人と思っていたお姉ちゃんは、どうもフィリピン人のようだった。
24番搭乗口へ行くよう案内された。
保安検査。荷物の中に飲み物が入っていないか尋問される。
灘で買った酒が入っているが、未開封である旨答えると、通してもらえた。24番ゲートへ行く。
既に多くの乗客が搭乗を待っている。
同じ飛行機で福岡へ行く人達だ。見も知らない人達だけど、妙に親近感を感じる。
ここにいるみんなで心を1つにして、福岡まで飛んで行くのだ。
もし157便に何かあったら、ここにいるみんなが同じ慰霊碑に奉られると思うと、
めちゃくちゃ親近感を感じる。
隣は同じくジェットスターの札幌便。
同じジェットスターに乗る人達と思えば、多少の親近感を感じる。北海道は寒いのだろうなあ・・・。
照明の反射を遮りながら窓の外を覗く。
我々の乗るA320-200型、機体番号JA04JJが出発準備中であった。
定刻から少し遅れてドアクローズ。この時点で5分の遅れ。
座席は10Fで、またまた窓のピッチと合っていない。
誘導路を通ってRW24L端へ。
今日は南向き離陸のようだ。 離陸待ちの飛行機が後に2機連なっている。
離陸。右にターン。 空港島がきれいに見える。 灯火がきれいだ。
明石海峡大橋の上空を通過。児島湾上空から内陸部に入る。
海岸から離れると灯りは見えなくなり、何処を飛んでいるのか全く分らなくなった。
福岡空港RW16に着陸。 10分くらい遅れている。 誘導路をぶっ飛ばす。
並行している県道、福岡空港線を走る車を追い越して行く。60キロ以上は出ている。
上下にピョコピョコよく揺れる。
関空から運命を共にして来た皆様も、一斉にピョコピョコ揺れている。なんかマヌケだ。
地上の飛行機はゆっくり動いている方がカッコいい。
運命を共にした皆様方とは、特に挨拶を交わすこともなく、何事もなかったように別れた。
サヨナラだけが人生なのである。
地下鉄乗り場へ行く。
発車寸前の姪浜行きに間に合って、博多駅でも発車寸前の快速に間に合った。(おわり)
ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その13 松尾大社は遠かった
小督塚から桂川の河畔に出ると、正面に葛野大堰(かどのおおい)がある。
渡月橋の少し上流、時々殺人事件があって死体が引っかかっていたりする、あの堰である。
この辺りは大堰川、葛野大堰から下流は桂川と呼ばれる。
葛野大堰を造ったのも秦さんである。 5世紀後半のことだ。
葛野大堰の完成により、桂川右岸の灌漑に成功。秦さんも潤う。
秦さんの潤沢な資金力によって、平安京は造営された。
葛野大堰がなかったら、今の京都はなかったかも知れない。
今見えている堰は近年改修されたものだが、やっていることは秦さん時代を変わらないだろう。
渡月橋を渡る。右岸にはちょっと高そうな飲食店が並んでいる。
「鳥市」と看板を掲げた、木造2階建ての古い料理屋があった。
手頃な値段で鳥料理が食べられる店の様だ。 機会があれば食ってみたいと思った。
桂川のあっち側は、るるぶ・じゃらん的なキラキラ観光地なのに対し、
こっち側は概して渋く、クレープなんか売っていない。
観光客も少ない。渡月橋を渡っていた大勢の人達は、何処に消えたのだろう。
法輪寺を見学する。境内に電電宮という社があるらしい。
鳥市の先から右手に少し登ると、法輪寺の山門があった。
山門を潜って長い石段を上がる。
法林寺もまた秦さん縁の場所だった。
法輪寺の元々は葛野井宮(かずのいぐう)という秦一族の祖神を奉る場所であった。
奈良時代の初期(713年)、勅命により行基が開基、葛井寺(かずのいでら)となり、
平安初期(829年)、空海の弟子、道昌(讃岐出身の秦さん)が虚空蔵菩薩像を安置。
その後、法輪寺と改められた。
桂川に渡月橋を架けたのも道昌である。
法輪寺公式HPには、空海や日蓮もここで修行したとある。 けっこうスゴいお寺である。
石段の途中にエジソンとヘルツのレリーフがあった。
先に本堂を見学する。
本堂の右側には、展望台のような広場があって、渡月橋方向や京都市街の眺めが良い。
遠くに和ローソクのような京都タワーも見える。
境内には多宝塔やうるしの碑などもあったけど、面倒なので割愛。
石段を下って電電宮へ。
朱の鳥居の奥に小さな社が見える。
道昌が井戸を汲んでいた時、空から明星が降ってきて、虚空蔵菩薩が飛んできた記念に、電電明神を奉ったらしい。
電電明神とは雷の神様(=雷様?)であるらしい。
隕石が落ちてきたのを、仏様が來迎したとして、雷様を奉ったということか。 良く分らん。
戦後、電波の神様として、電波関係者が参拝するようになったようだ。
松尾大社へ。
嵐山から1駅、松尾まで阪急電車に乗る予定だったが、時間もあるし、歩くことにした。
法輪寺を過ぎると観光地は終わり、静かな住宅街となった。
県道から外れて山の辺の、民家の中の路地を行く。
左後方から水路が合流。 水路に沿って歩く。
オリジナルではないだろうが、概ね秦さんの造った用水路だろう。
この桂川用水は、葛野大堰で分水された後、桂川に沿って、桂川より一段高い所を流れている。
この先、向日市(むこうし)、長岡京辺りまで続いているそうだ。
山影は少し肌寒いが、歩いていると温まる。
水路沿いの道は、等高線をなぞるように、くねくねと続く。
地図上では1キロほどの道程だったが、実際に歩くとずいぶん遠く感じる。
昨日から歩きっぱなしで、左足の土不踏が痛い。
いいかげんイヤになってきた頃、松尾大社の森が見えてきた。
正面まで行くのがしんどくて、側面から入る。
今回の旅の最後の訪問地。用水が境内を貫流している。
松尾大社は701年に創建。京都最古の神社。
秦忌寸都理(はたのいみきとり)という秦さんが、松尾山の山頂にあった盤座から、山の神を勧請したのが始まり。
松尾山の盤座は、この辺り一帯に住んでいた秦一族の聖地であった。
730年に勅許され大社を名乗る。
祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)と中津島姫命(なかつしまひめのみこと)の2神。
神紋は二重の葵。 デザインは異なるが、木嶋神社、下鴨神社と同じ。
大山咋神はその後、天台宗・比叡山(日枝山:ひのえやま)の守護神として、
大津の日吉大社に奉られる神様である。
もう1人の祭神、中津島姫命とは市杵島姫命のことで、宗像三姉妹の1人。
松尾大社公式HPでは、秦一族が本国との通行安全を願って宗像大社から勧請した、
とされている。
松尾大社と言えば、お酒の神様である。期待してやって来たのだが、そんなに酒々していない。
松尾大社的には「うちの多々ある御利益の1つに過ぎません」と言うことか。
唯一目に付くのが、全国各地の酒造業者から奉納された薦被り。
良く見かける銘柄、ちょっとマイナーな銘柄、聞いたこともないような銘柄など、
いろいろな種類の酒樽がうず高く積まれている。
付属する「お酒の資料館」にあった説明文によると、
聖武天皇の頃(733年)、社殿背後の御手洗谷から霊泉が湧き、
「この水で酒を醸し、我を祀らば、福寿増長、家門繁栄すべし」
と神託があり、以来、酒の神として、広く醸造業者等から崇拝されているらしい。
お酒に限らす、醤油味噌など醸造全般に効くようだ。
松尾大社のマスコットキャラクターは亀さんで、至る所に亀さんがいる。
境内の片隅には「幸運の撫で亀」というのもあった。
小さな亀の石像なのだけれど、この亀を撫でると長生きするそうである。
みんなから散々撫でられて、亀の頭がテカテカ光っている。
まだ午後2時だが、松尾山の山陰になって境内は暗い。
やはり神社は午前中に見学すべきである。
まだお正月仕様で、拝殿前には特設賽銭箱が設置されたままになっている。
他にも特設おみくじ授与所や、絵馬授与所などの屋台やテントが並んでいる。落ち着かない。
気候の良い時季、午前中に再訪しようと思った。
楼門を出て一の鳥居を潜る。一の鳥居には榊が12本ぶら下がっている。
脇勧請(わきかんじょう)。この榊の枯れ具合で、その年の農作物の出来不出来を占うそうだ。
新年に合せて取り替えるので、まだ青々している。
表参道を松尾駅に向かって歩くと、巨大な鳥居が見えてきた。
コンクリート製で、平成6年10月建立と書かれてある。
平安遷都1200年記念に建てられたらしい。
位置的にはこれが一の鳥居だが、
オトーサン的にはこれは観光鳥居で、一の鳥居とは認めないことにする。
観光鳥居のすぐ目の前に阪急嵐山線松尾駅はあった。
今朝、四条烏丸駅で買っておいた関空アクセスきっぷで入場。
京都市内から関空まで1200円也。予定より1本早い電車に乗れてしまった。
桂駅で京都線の特急に乗り換え。
高槻を過ぎた辺り、進行方向右手に茶色の奇妙な建物が見えてきた。
板チョコレートのように見える。
調べてみたら、明治製菓大阪工場の板チョコレート形巨大看板だった。
板チョコの長辺は166メートルもあるそうだ。
淡路で下車。(つづく)
ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その12 野宮神社で赤面する
帷子ノ辻電停まで歩いて戻る。
電柱の住所表記を見ると、太秦面影町とある。太秦面影町…萌え萌えである。
パトレイバーに乗って車折神社(くるまざきじんじゃ)へ移動。
電停のすぐ後ろに鳥居がある。こちら側は裏口だが、構わず入場する。
最近は神社巡りをする若者も多い。
同じパトレイバーに乗っていた数人の若い女子も車折神社へ入場して行った。
御朱印帳を持って参拝している若いお兄ちゃんも見かけた。
車折神社の祭神は、清原頼業(きよはらよりなり)という平安末期の高級官僚。
清盛や頼朝とも関わった偉い人。この場所は元々頼業公の墓所であった。
後嵯峨天皇の牛車がここを通ったとき、牛車の長柄が折れたので「車折神社」となったらしい。
車折神社のご利益は「約束を違えないこと」である。すなわち、
売掛金の回収が滞りなく進み、資金繰りが都合よく運び、恋愛結婚においても様々な約束事や誓いが守られ、その他厄除け・交通安全など、どんな願い事も約束を違えず叶えてくれる・・・
そうである。
どうしてご利益が「約束を違えないこと」なのか、特に説明はなかった。
京都の神社らしく、境内は明るく華やかだ。
境内社の芸能神社を見学。ここの売りはここである。
玉垣には有名芸能人の名前がずらりと並んでいる。
(聞いた事もないような芸能人の名前もそれ以上にある!)
一等地に並んでいるのは、やはり旬の人ばかり。ちょっとイヤらしい。
因みに、この芸能玉垣は1本2年間で8500円と、比較的手頃な料金である。
芸能人に免許や資格はないから、金さえ払えば誰でもイケそうである。
芸能神社の祭神は天宇受賣命(あめのうずめ)。天岩戸の前でストリップを踊った女神である。
裏口から出て、再び嵐電に乗る。嵐電嵐山線の終点、嵐山に到着。
嵐山と言えば、超メジャー観光地。メジャーな割には、案外見る所は少ないような気がする。
渡月橋、美空ひばり記念館、梅宮辰夫の漬物屋くらいしか思いつかない。
周辺には由緒ある寺院がいっぱいあるのだが、興味がない人にはつまらない場所だと思う。
昼飯も食わずに頑張ったので、時間に少し余裕がある。
予定していなかった野宮神社を見学することにする。
天龍寺の前を北へ進み、竹林の道を通って野宮神社の前に着いた。
野宮神社は20年ほど前にも一度訪れている。
スピリチュアルなどという言葉もなかった頃で、誰もいない静かな神社だった。
現在の野宮神社は、恋愛系ミーハー神社になっていた。女性参拝客が多い。
「OO君とずっ~とずっ~と一緒にいられますように・・・」
などと、恥ずかしい文言が書かれた絵馬がいっぱいぶら下っている。
見ているこちらの方が赤面しそうである。早々に退散する。
渡月橋の袂まで歩いて来た。このまま渡月橋を渡っても良いのだが、まだ少し時間がありそうだ。
小督塚を見学することにした。
本当は時雨殿(小倉百人一首ミュージアム)に行きたかったけど、そこまでの時間はなかった。
渡月橋から桂川の左岸を少し遡上る。少し入った所に小さな石塔が建っていた。
小督塚。小督局が隠れ住んでいたとされる場所だ。
愛娘を亡くして落胆していた夫、高倉天皇を慰めるため、
中宮徳子(清盛の娘、後の建礼門院)は絶世の美女、小督局(こごうのつぼね)を差し向けた。
高倉天皇はすぐに小督局に夢中になってしまい、徳子の方は放ったらかし。
激高したのは清盛で、娘を蔑ろにされた事は無論だが、
小督局との間に子供でも出来たら今までの努力は水の泡。
清盛の怒りに触れ、恐れ戦いた小督局は、ここ嵯峨野の地に身を隠したのである。
奥さんから愛人(しかも、絶世の美女)を紹介されるなんて、
何とも羨ましい話・・・もとい、現代の常識からすると、ちょっと考えられないことである。
その後、高倉天皇は小督局を捜したりするのだけれど、最後には小督局は出家させられてしまう。
徳子は無事に安徳天皇を産み、清盛は天皇の爺ちゃんになれたのである。
一般的には「悲恋」な話だけど・・・
小督局とは藤原の人間らしいから、藤原が送り込んだハニートラップの可能性もゼロではない。
などと、ひねくれ者のオトーサンは考えたりする。 (つづく)
ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その11 巨大石室を見学する
北野線の終点、北野白梅町(きたのはくばいちょう)に到着。
車がガンガン通る大きな交差点に面食らった。静かな所だと勝手に思い込んでいた。
今出川通りの西の基点。今出川通りはここから東へ、
同志社大学の前、鴨川を渡り、百万遍の交差点を経て、銀閣寺まで続いている。
1本下って一条通りを歩く。なつかしい感じの商店街。
付喪神(つくもかみ)とは、長い年月を経た道具に憑く神。
付喪神たちが夜中に一条通りを行進(百鬼夜行:ひゃっきやこう)したそうだ。
北野天神に骨董市が立つので、打ち捨てられた道具たちが、そこに向かって行進しているのだ。
この百鬼夜行に因み、一条通り大将軍商店街を「妖怪ストリート」として売り出している。
各々の店先には手作りの妖怪が飾られている。
道具に憑くはずだが、鬼太郎っぽいのとか1つ目小僧とか、ちょっと趣旨にズレているヤツもいる。
大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)。
京都の四方に配されている大将軍神社の1つ。方位神。現在の祭神はスサノオと五男三女神。
御前(おんまえ)通りを北上して北野天満宮に至る。
この辺りにTOFU CAFE FUJINOという、豆腐料理を食べさせる店、があったはず。
・・・見当たらなかった。
北野天満宮の鳥居前にはタクシーが屯していて、
運転手がだらしなく煙草を吹かしていたりする。 なんとなくローマっぽい。いい感じ。
ゆるやかにカーブした参道を進む。北野天満宮は全国に1万2千社ある天満宮の東の総本社。
祭神はもちろん菅原ちゃん、菅原道真公である。
藤原基経(ふじわらもとつね)の影響力を排除しようとした宇多天皇・・・
「玉茎不発、ただ老人の如し」と、ED宣言。基経の送り込んだ娘、温子(よしこ)との子作りを拒否。
一方で天才エリート官僚、菅原道真を重用。
醍醐天皇へ突然の譲位を行い、道真と共に院政を行う。
藤原基経の没後、息子の藤原時平(ふじわらときひら)は、
醍醐天皇に娘を輿入れさせることに成功するも、子供が生まれない。
宇多院の第3皇子(斉世親王)と道真の娘との間には、男子(源英明)が生まれてしまう。
アセった時平、謀略により、道真を大宰府に左遷してしまう。
道真を守るべき宇多院は、この頃は仏様に夢中で都を離れていた。
時平は、宇多院不在の隙を突いて突然道真を断罪、即左遷したのである。
大宰府に飛ばされた道真は、2年後に没する。59歳であった。
東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
楼門が見えてきた。お正月用の巨大絵馬が飾られている。
太閤井戸の前に、「北野大茶湯之址」と刻まれた石碑がある。
九州平定と聚楽第完成の祝賀イベント、北野大茶湯(きたのだいさのえ)が行われた場所らしい。
身分を問わず誰でも参加OK!の画期的なイベントだったが、参加者が集まらず、10日間の予定が、たった1日で終了したとか。
楼門を潜って左側には、大きな屋根を持つ絵馬所があって、たくさんの絵馬が掲げられている。
参道が少し左にズレて、正面に三光門。逆三角形のカッコいい楼門である。
本殿は1607年に建てられたもの。秀頼さんが寄進。国宝。
北野天満宮の創建は947年。道真が大宰府で没してから43年後のことである。
道真の没後、都では数々の怪事件が起こる。
道真左遷に関わった者は次々に死に、清涼殿は雷に打たれて炎上してしまう。
人々は道真の祟りと噂した。
ビビり上がったのは藤原氏。
壮大な社殿を造営、時の天皇(一条天皇)を連れて来て「天神」の称号まで贈らせた。
道真公は天皇を超えて、天つ神になっちゃったのである。
北野天満宮公式由緒には、道真怨念説は一切書かれていなかった。
本殿の見学を終えて、境内の西側へ。菅原道真が詠んだ「手向山」の歌碑があった。
宇多天皇に随行して奈良を訪れた際、手向山八幡で詠んだ句。
オトーサンは全く無知だが、百人一首に含まれる歌らしい。
このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
北野天満宮の敷地の西側には、随分低い所に天神川が流れている。
秀吉が築いた、京の町をぐるっと一周取り囲む防塁、御土井(おどい)の説明板があった。
天神川が掘で、土手が堤である。
御土井の内側が洛中で、外側が洛外だ。
鞍馬口とか、丹波口という地名は、御土井の切れていた場所だ。
オトーサンは「御土井」のことは全く知らなかった。まだまだお勉強が足りないな。
北野天満宮の隣に、平野神社があるはずだが、なかなか行き着かない。
行き着かないまま、北野白梅町の電停に戻って来てしまった。
時刻は11時半。小腹が減った。電停の周囲には、特に飲食店も見当たらない。
電停の隣にある、イズミヤというスーパーに入ってみる。飲食店もイートインもなし。
出店のたい焼きを買って外に出る。
北野白梅町の電停で、電車を待つ間にペットボトルで流し込んだ。
帷子ノ辻に戻って来た。持参した地図を見ながら、蛇塚古墳を目指す。
グーグルアースで偶然見つて以来、ずっと行ってみたかった所だ。
路地の入口に、太秦南堀ヶ内町の住宅地図があった。地図を見ると、秦さん家が数軒あった。
今でも秦さんが住んでいるのだ!
松竹撮影所の横を通る。塀の向こう側に、江戸時代の町並みが少し見えた。
必殺仕事人シリーズなどがここで撮影されたそうだ。
10分くらい歩いて蛇塚古墳に到着。全長75メートルの前方後円墳。
被葬者は不明。秦河勝の墓だとする研究者もいる。
密集した住宅地の真ん中。後円部を取り囲む路地に沿って、扇形に民家が並んでいる。
前方部と石室を覆う盛土は失われている。石室が剥き出し状態。
住宅地の中に、露出した石室だけが取り残されている。
大きな岩で石室を組んである。赤みを帯びた堆積岩。崩れ易い岩だ。
岩は特に加工された様子はなく、自然のままに見える。石室は鉄骨で補強済み。
この巨大石室は石舞台古墳に匹敵する大きさがあるそうだ。
石室の周囲はフェンスで囲まれていて、事前情報によると、通常は施錠されているようだ。
何故だか鍵は開いていて、石室の中には先客がいた。
三十路後半くらいの女性で、なかなかのべっぴんさんだった。
挨拶をしてから石室に入る。
お互いに同好者と分かったようで、「ここ、すごいですねぇ~」と顔を見合わせながら見学する。
もしかしたら先の女性が、然るべき手続きを経て解錠したのかも知れない。ラッキーだった。
先客の女性とはその後特に発展することもなく、蛇塚古墳を後にした。
まあ、そんなもんである。(つづく)
ジェットスターで行く神戸・京都の旅~その10 静御前に会いに行く
木嶋神社の前を東西に走るのが太子道。広隆寺へ続いている。
秦さんと聖徳太子は、とても仲良しだったようだ。蚕ノ杜電停に戻る。
蚕ノ杜から乗った電車は、パトカーのような塗装がされていた。パトレイバーみたいだ。
蚕ノ杜の1つ隣、太秦広隆寺(うすまさこうりゅうじ)電停で下車。
秦一族のリーダー、秦河勝(はたかわかつ)が建てたのが広隆寺。603年の創建。
聖徳太子から賜った仏像を御本尊とする。 秦一族の氏寺だ。
国宝第1号の弥勒菩薩半跏像(みろくぼさつはんかぞう)など、すごいヤツがいっぱいあるらしい。
第1号は社会科の教科書には必ず載っているから、見たら「ああ」と判るだろう。
第1号を拝観するには700円の料金が掛かる。貧乏人のオトーサンは拝むことが出来ない。
無料部分のみ見学する。
広隆寺を出て映画村方向へ少し歩くと、ローソンの向かいに大酒神社(おおさけじんじゃ)がある。
元は広隆寺の境内にあったが、神仏分離により遷座されたようだ。境内は狭い。
祭神は秦始皇帝、弓月王(ゆづきのきみ)、秦酒公(はたさけのきみ)。
弓月王とは、日本にやって来た秦一族のルーツで、秦酒公は秦河勝より古い時代のリーダー。
「仲哀天皇4年、秦始皇帝の裔、秦氏の祖、功満王(弓月王のお父さん)が来朝し、
始皇帝の祖霊を広隆寺に祀った」と由緒書にある。
大酒とは「大避」で、戦乱を避けて日本にやって来たので、「大避」である。
災難避けのご利益があるそうだ。大酒神社には、お酒の神様は奉られていない。
太秦広隆寺からまた1駅だけ電車に乗って、帷子ノ辻(かたびらのつじ)で降りる。
帷子ノ辻から折り返して北野線が分岐している。
壇林皇后(嵯峨天皇の后)の葬列がこの辺りに差し掛かったところ、
にわかに風が吹いて、棺を覆っていた帷子が飛んだので帷子ノ辻。
帷子とは、夏用の麻の単衣のことらしい。雅である。
北野線に乗り換え。レトロ風電車に乗って1駅、常盤電停で降りる。
嵯峨野高校の前を通り、踏切を渡ると、ほどなく源光寺という寺の前に着いた。小さな寺である。
「唯一全国地蔵尊霊場会総合本部」などなど、仰々しい看板がたくさん掲げてある。
ちょっと怪しい雰囲気。人気はない。 恐る恐る山門を潜る。
常盤御前の墓があると聞いてやって来たのだが、境内にはそれらしい墓は見当たらない。
見つけられないまま寺を出た。
地名の由来は、嵯峨天皇の第3皇子、源常(みなもとのときわ)の別荘があったことから。
天皇の息子が源氏姓を名乗っているのは、嵯峨天皇が子を作り過ぎたから。
所謂、臣籍降下というヤツ。 嵯峨源氏のルーツ。
生八ツ橋「夕子」号に乗って、宇多野(うたの)電停で下車。
国道を北へ行って、福王子神社を見学。宇多天皇のお母さんを奉っている神社だ。
福王子神社から少し歩いて、
第58代光孝天皇(こうこうてんのう:宇多天皇の父)後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)を見学。
あまりメジャーな御陵ではないが、宮内庁により丁寧に管理されている。
見覚えのあるシンプルな注意書きあり。
草木が茂って判りにくいが、直径30メートルくらいの円墳。
宮内庁による比定地で、本当にこれが光孝天皇の陵であるかは、ちょっと怪しいようだ。
光孝天皇は55歳で即位、58歳で崩御されている。温和な方であったらしい。
御室仁和寺(おむろにんなじ)電停まで歩く。
天気予報は良い方に外れて、日差しもあるし、そんなに寒くない。
御室仁和寺の電停は、仁和寺の山門の真正面にあって、寺社風の造りになっている。
光孝天皇の遺志を継ぎ、宇多天皇が仁和寺を落成。
出家後の宇多法皇が住んだので、「御室」である。
宇多天皇の陵墓は仁和寺の裏山にある。世界遺産仁和寺は、時間と予算の関係で見学しない。
御室は体温計で有名なオムロンの創業地。(つづく)